「君」から「あなた」へ――宇多田ヒカルが新曲を“あなた”と題した理由を考える

「君」から「あなた」へ――宇多田ヒカルが新曲を“あなた”と題した理由を考える
2016年4月、音楽活動を再開させた宇多田ヒカルが配信でリリースしたのは“花束を君に”と“真夏の通り雨”だった。同日にリリースされたこの2曲は、とても対照的な楽曲だと思う。“花束を君に”は、NHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』の主題歌だったということもあり、多くの人に寄り添う良い意味での大衆性を持った歌だったのに対し、“真夏の通り雨”は、宇多田ヒカル本人にしか見えない景色を、自身の気持ちを昇華するために綴ったような曲だった。そこで描かれていたのは彼女の母親への思いである。この“真夏の通り雨”の、哀切の中にじんわりと染み込むやさしい雨のようなメロディと歌詞──心が震えた。


彼女が「母親」という存在に正面から向き合ったのは、“真夏の通り雨”がたぶん初めてのことだっただろう。今も何度聴いても、目を閉じてずっとその歌に聴き入っていたくなる魔力にも似た魅力を持つこの曲が作られたのは、実は宇多田ヒカルが新たな命を自身の体に宿したまさに妊娠中の時期であったと、今年『ROCKIN’ON JAPAN』9月号のインタビューを読んで知った。「妊娠に気づいてから、『ああ、そっか。このままいったらいついつ頃に出産で、そしたらしばらく仕事できないし。となったら、アルバム作るってなると、その前に結構やらなきゃ無理だな』って。『あ、わたし親になるんだ』って思ったら、急に『あ、仕事しなきゃ!』ってなったんですよ(笑)」と、彼女らしくカラッと語っているが、この時おそらく初めて能動的に作品を作ろうという気持ちになったことを、このインタビュー内で語っている。そこで、出産前に歌詞までしっかり作り上げたのが“真夏の通り雨”だったというのだ。それを知って驚くとともに、ひとり合点がいった。そう、この楽曲を境に、彼女の表現が大きく変わったように感じたのは私だけではないはずだ。昨年リリースされたアルバム『Fantôme』の素晴らしさは言うまでもない。

前述したインタビューでもインタビュアーの渋谷陽一が言及していることだけれど、これまで彼女の歌に用いられていた二人称は圧倒的に「君」が多かった。しかし“真夏の通り雨”では「あなた」になり、アルバム『Fantôme』の収録楽曲も「あなた」の印象が強い作品だ。大切な人を亡くし、大切な人が生まれ、これまで適度な距離感で語ってきた「君」とは違う、自分自身がその人の一部のような、自分自身の一部もその人の中にあるような、もう距離感など考える必要などない存在に気づいた時、宇多田ヒカルの中から「あなた」という言葉は自然に出てきたのではないかと思う。そんなことを思っていたこの頃だった。

そんな時、次に配信リリースされるシングル曲が“あなた”というタイトルであることを知った。これはもう、“真夏の通り雨”から続く、宇多田ヒカル自身の感情のバトンとでも言いたくなるような流れではないか。“あなた”は、映画『DESTINY 鎌倉ものがたり』の主題歌として書き下ろされたものだが、その映画によせた公式コメントの中で「一つの普遍的な愛の形として、母親目線から音楽的表現をしたのはこの歌が初めてになります」と語っている。また「死んでも手放せないほどこの世のなにかに執着することの人間らしさに共感して、自分の死後を想像して“あなた”を制作しました」とも。その死んでも手放したくないものこそ、最愛の我が子であり、この歌にはこれ以上はない大きな愛が描かれている。大げさでもなんでもなく、この歌を聴いて自然に涙が溢れた。確かに母親目線で書かれた楽曲ではあるが、その根底には自分から母親に向けての思いも込められているような気がして、だからこそ誰もがこの強い愛に共感するのではないかと思う。そして、“真夏の通り雨”で、娘としての母への思いを昇華したからこそ、正面から母として“あなた”という歌を書き上げる、今の宇多田ヒカルがいるのではないかとも思うのだ。


今振り返れば、私たちは宇多田ヒカルの作品に触れる時、いつでも彼女自身の人生が彼女の描く歌詞を変化させていることを漠然と感じていたはずだ。今回の“あなた”は、そのひとつの到達点であるような気がするし、これからもまたいろいろな出来事が彼女の表現を変えていくことだろう。12月9日(土)に刊行される彼女の初の歌詞集『宇多田ヒカルの言葉』は、そういう意味でベストなタイミングでのリリースだと思う。デビュー曲“Automatic”から、この“あなた”まで、これまで発表してきたすべての曲の歌詞を、ボーカルレコーディングが行われた順に掲載してあるという。まさに、彼女の「言葉」の変化を改めて見つめ直す、とてもよい機会だと思う。その言葉をじっくりと味わいたい。(杉浦美恵)
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