一言で言うと、最新アルバム『初恋』は宇多田ヒカルが初めて「宇多田ヒカル」であることを背負わずに自分の人生に向き合ったアルバム。
宇多田ヒカル以外に「宇多田ヒカル」であることを背負える人はいない。
「宇多田ヒカル」というアーティストをプロデュースし、その音楽がもたらすものに最後まで向き合える人は宇多田ヒカル自身しかいない。
かつて2000年のシングル曲〝For You〟で彼女はこう歌った。
《誰かの為じゃなく 自分の為にだけ/優しくなれたらいいのに/一人じゃ孤独を感じられない/だから For you…/強くなれるように いつか届くように/君にも同じ孤独をあげたい/だから I sing this song for you》
「宇多田ヒカル」は誰かの為に歌うことを、徹底的に突き詰める宿命を背負っているポップ・アーティストだった。
だから国民的アーティストと呼ばれるに相応しいくらい本当にたくさんの人が宇多田ヒカルの音楽を、彼女の孤独を共に感じながら、自分のための音楽として自然に聴き続けてきた。
1998年のファーストアルバム『First Love』から、一時アーティスト活動休止を挟んでの6枚目のアルバム『Fantôme』にいたるまで、そのときどきにおける必然を咀嚼し尽くしながら彼女は作品を生み出してきて、だからこそそれぞれのアルバムは彼女と「誰かという他者」の関わりのプリズムの中で全く違う形を見せてきた。
しかし今回の『初恋』というアルバムは、明らかに誰かの為に歌う「宇多田ヒカル」のアルバムではない。
自分の為だけに歌っているわけではないけれど、誰かの為じゃない自分の為の彼女の人生における、「初恋」という言葉が象徴するような、人生の始まりとも終着点とも感じられるぐらい強烈な他者との関わりが歌われている。
そうなると、もうポップ・アーティストとしての「宇多田ヒカル」はいないのか。
いや、彼女がこのアルバムを生み出すにいたる様々なきっかけと、音楽と聴き手の関わり方の構造=ポップ・ミュージックの意味そのものの変質、それが不思議な同期を起こしていて、結果的にこれこそが新しいポップ・ミュージックの形のひとつだと言える手応えを僕は感じる。
誰かの為じゃない、自分の為の人生を生きる新しい宇多田ヒカルの歌だからこそ、僕は1曲目“Play A Love Song”から12曲目“嫉妬されるべき人生”まででトータルで描かれるこのアルバムのメッセージを、自分の為のもののように感じて心が震える。
これまでのポップ・アーティストとしての宇多田ヒカルを脱ぎ捨てながら、宇多田ヒカルが時代を超越した桁違いのポップ・アーティストであることを証明するアルバム、それが『初恋』なのである。(古河晋)