10-FEETの音楽はなぜ「はじまり」よりも「終わり」があることに希望を見出すのか?

10-FEETの音楽はなぜ「はじまり」よりも「終わり」があることに希望を見出すのか?
「京都大作戦」の4Days開催と、2年ぶりのシングル『ハローフィクサー』のリリースを控えた10-FEET。活動も音楽も含めて、彼らに対してパワフルなイメージを抱いている人は多いだろう。しかし、彼らの楽曲の歌詞には、意外なほど「終わり」を描いているものが多いのだ。

それは、かなり初期から続いている。私が彼らを初めて観た2002年頃、最も衝撃を受けたのはそのギャップだった。人懐っこいメロディと、カラッと突き抜けた演奏、そして歌やパフォーマンスにユーモアを交えるだけではなく、ステージの上でものまねまでやってのける彼らは、明るさに溢れたバンドという面が際立っていた。しかし、ひとたび耳を澄ますと《人はいつか死に そしてまた生まれる》(“CHERRY BLOSSOM”)と歌っていたのだ。
とは言え、当時は「ライブが楽しいバンド」という位置付けで見ている人も多かったと思うのだが、間もなく彼らは“RIVER”という、10-FEETだからできることを表明したような決定的な名曲をドロップする。人生を川にたとえた歌詞には、ロックバンドが歌うには意外過ぎる《母は泣いた》という一節が刻まれていた。それまで彼らをさらっと知っていた人は、「あの明るいバンドが!?」と驚いたし、それまで彼らを知らなかった人は「こんなロックバンドがいるんだ!」と驚いた。


死から逃れられないから、思いっきり生きられる。闇を知っているから、どこまでも明るくなれる。そんな、彼らの表現の芯にあるものが“RIVER”によって伝わっていき、彼らの人気は高まっていった。これほど陽にも陰にも振り切っているバンドは、他にいなかったから。彼らにとっては、こういうスタンスを明確に表明することは勇気が要ったかもしれないが、キッズはそこに惹かれたのだと思う。なぜなら、自分自身だって、落ち込むこともあれば、弾けることもあるから。10-FEETはリアルだ、このバンドは信じられる。そういった思いが膨らんでいった結果が、後の「京都大作戦」の壮大且つピュアな奇跡の光景を生み出したのだと思う。

もちろん10-FEET自身も、そのリアルを進化の中で貫き続けている。特に2012年リリースのアルバム『thread』以降は、東日本大震災の影響もあるのだろうか、その傾向が強まっているように見える。“求め合う日々”、“淋しさに火をくべ”、“ヒトリセカイ”、“Fin”など……。特に私は、“アンテナラスト”に顕著に表れているように感じる。《時が悲しみを乾かしても 錆付いたアンテナをかざしてた/時は人を変え 道は分かれ 喜びを探して出会ったり 手を離したり》――表現は繊細になっているが、リアルという意味では、その濃度を増している。時勢によって、世の中も、キッズの目も、リアルか否かをジャッジする目が鋭くなっている中、彼らに対する信頼感は揺るぎない。


ともすれば暗い、悲しいと受け取られがちな世界観。しかし、彼らはライブで、生きざまで、「それでも明るく突き進んでいく」姿を見せてくれる。また、ライブも表現の主体となった時代に、彼らのスタイルはより説得力を増し続けている。そんな彼らの、ブレのないリアルに、私自身も、多くの人も、支えられ続けているのだと思う。(高橋美穂)

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