おいしくるメロンパンの音楽は映像的である。それは単に歌詞が情景を浮かび上がらせるということではなく、ギターとベースとドラムとメロディの連なり、それ自体が映像的であるということだ。音が色と形を持っていて、それが重なることで景色が生まれ、感情を語り出し、物語を駆動させる。言葉を紡ぐ以前に音が描く景色があって、そこに乗るナカシマ(Vo・G)の歌は、その景色を映した映像に付けられたナレーションのようにすら聞こえる。
もちろん実際に曲が生まれるプロセスは逆、つまり、まずナカシマの書くメロディと言葉があって、そこに音が肉付けされることでバンドサウンドが出来上がっていくに決まっているのだが、たとえば“色水”の冒頭の乾いたギターストローク、“あの秋とスクールデイズ”で鳴り続けるシンバル、“水葬”の細かく動くベースライン、どの曲のどの音でもいいが、おいしくるメロンパンの楽曲には、そのひとつひとつの音の中に言外の物語が「すでに」流れているような感覚がある。“nazca”のスケールの大きなビジョンは言葉で歌われる以前にそのアンサンブルが体現しているし、“シュガーサーフ”の海の風景はノイジーなギターと反復されるリズムの中に先んじて描き出されている。だから、最後にナカシマがマイクに向かってすることといえば、その景色をつぶさに「見て」、叙事的に「描写する」だけだ。
初の配信シングルである“憧景”は、「カルピス」100周年を記念したミュージックビデオとアニメーションのコラボレーション企画「タナバタノオト」に書き下ろした1曲。タイトルは普通に書くと「憧憬」となるところを、あえて「憬」の字を「景」に置き換えている。「憧れの景色」という意味を込めているとのことだが、確かに、この曲に描かれているのは徹底して「景色」である。
この曲でのおいしくるメロンパンは、これまで以上に鮮やかに景色を描き、物語を語っている。徐々にテンションを高め加速していくギターのコードとリズムは過去と現在をダイレクトに結び、乾いたハイハットの音色は時計の針のように淡い夏の時間を刻む。その一方で、バックで流れるアルペジオを追いかけて補足するような《浮かんでは消えるシャボン玉のよう》という歌い出しから始まるナカシマの歌は、歌詞に即して言うなら、まるで夜空を見上げて星と星を線で結んでいくような視線でもって、曲に潜む青春の激情を炙り出していく。《この窓を放てば届きそうなくらい 近くに見えたのに》、《逆さに落ちる鳥の姿を見た》、《泥濘みの底でみた月》、《君もみている》――この曲でのナカシマはずっと「見て」いる。映像とのコラボレーションが前提ということも影響しているのだろう、徹底的に「観察者」的であり続けようとする彼の視点が、音が浮かび上がらせる景色を一篇の短編映画に仕立てている。(小川智宏)