名プロデューサー4人がR.E.M.を振り返る

名プロデューサー4人がR.E.M.を振り返る - R.E.M.『オートマティック・フォー・ザ・ピープル』R.E.M.『オートマティック・フォー・ザ・ピープル』

9月21日にバンドのオフィシャル・サイトで突然の解散を宣言したR.E.M.だが、1987年から1996年までバンドのプロデューサーとして活躍したスコット・リットなど、バンドに関わったプロデューサー数名がビルボード誌にバンドの回想などを語っている。

リットはIRSレーベル時代の最終作『ドキュメント』からビル・ベリーが在籍した最後のアルバムとなった1996年の『ニュー・アドヴェンチャーズ・イン・ハイ-ファイ』までという、R.E.M.の黄金期の作品の数々を手がけているが、そのなかでも最高傑作と名高い『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』の名曲“マン・オン・ザ・ムーン”が危うくアルバムに収録されなかったかもしれないというエピソード次のように回想している。

もともとこの曲はアンディ・カウフマンというコメディアンを題材にした歌詞で知られているが、ボーカルのマイケル・スタイプが書いていたこの曲の歌詞はぎりぎりまで完成せず「もうアルバムにも間に合わないだろうってノリだったんだ」とリットは語っている。「結局、無理やりマイケルに仕上げさせたっていう感じになったんだけどね。でも、あの曲をラジオで耳にしたりするとね、あの日、この曲が完成してくれたことに対して、感謝の気持ちでいっぱいになるんだよ」。

イギリスでの初海外レコーディング作となった1985年の『フェイブルズ・オブ・リコンストラクション』のプロデューサーを手がけたジョー・ボイドは「本当に最初からあの4人はあらゆるものについてのアプローチがほかとは違ってたね」と振り返っている。ただ、バンドもボイドも不慣れな環境でのレコーディングとなったため、ボイドとしてはこの作品が不本意な結果に終わったと悔やんでいるという。

ボイドとしては、どうしてもマイケルのボーカルを弾けさせることができず、声の音質が澱んでほかのサウンドのなかに埋もれてしまったという。ボイドはその後も、この作品のリミックスをさせてほしいとも打診したそうだが、バンドは逆に、この作品はこれでこそこの作品だとして、ボイドの申し入れを断ったとか。

一方、1986年の『ライフス・リッチ・ページェント』のプロデューサーを手がけたドン・ゲイマンによれば、マイケルの声をいかに際立たせるかがこの作品におけるゲイマンのテーマになったと説明している。

「マイケルの声はあまりにも個性的な響きを持っていたから、この独特な豊かさはちゃんと聴かれて評価されるべきだと思ったんだよね」とゲイマンは説明している。ただ、当時のマイケルは自分の声も歌詞もほかの楽器やパートと一緒に渾然と一体化したものとして届けることをよしとしていたので、ゲイマンは必死に食い下がって、言葉をより聴きやすくしてマイケルの声の存在感をこれまでよりわかりやすくすることを説得して了解してもらったという。

そして、翌年、リットが手がけた『ドキュメント』になると、マイケルのボーカルと歌詞はすでにある世代を代弁する声になっていたとリットは回想している。

バンドの最初の2枚のアルバムとファーストEPを手がけたプロデューサーのミッチ・イースターは「連中がもう30年もやってきてたんだって実感するまでになんかすごい時間がかかったんだよね」と回想する。「でも、今度はもうバンドがいなくなったんだって、これをまた実感するのにえらい時間がかかるんだろうな」。

リットはR.E.M.の成功と今回の突然の解散について「連中が図るタイミングっていうのはいつも非の打ち所がないんだよ」と語る。「確かに今が潮時だったんだ」。
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