ロキシー・ミュージックのオリジナル・ベーシストのグラハム・シンプソンが他界

ロキシー・ミュージックのオリジナル・ベーシストのグラハム・シンプソンが他界 - ロキシー・ミュージック 1972年作品『ロキシー・ミュージック』ロキシー・ミュージック 1972年作品『ロキシー・ミュージック』

ロキシー・ミュージックのオリジナル・ベーシストのグラハム・シンプソンが4月16日にロンドンで他界していたことが明らかになった。68歳だった。

グラハムはヴォーカルのブライアン・フェリーの大学時代の友人で、一緒にバンド、ザ・ガス・ボードを結成し活動していた。その後、ブライアンは教職に就くが、リスニング・セッションを授業中に設けたことが発覚してクビになるとグラハムとふたりで新バンド結成を図り、メンバー募集をかけて集まったグループがやがてロキシー・ミュージックとなった。

かつてキング・クリムゾンのヴォーカルのオーディションも受けていたブライアンはロバート・フリップから注目されていて、その後押しを受けて同じ事務所と契約し、やがてレコード契約にもありついてデビュー作『ロキシー・ミュージック』を1972年にリリースし、一躍話題のグループともなった。

しかし、個性的なメンバーが集ったグループの独特な運営や母親の他界にも遭ってグラハムはやがて憔悴してしまい、ブライアンにバンドに残るかやめるかの選択を迫られ、グループを脱退した。グラハムのバンドでのレコーディング活動はデモ音源制作、ロキシーに注目していたBBCのラジオDJ、ジョン・ピールの番組用に収録したスタジオ・ライヴ音源、そしてファースト・アルバム『ロキシー・ミュージック』となった。

ロキシーとの別れについてグラハムは「ブライアンから最後にかけてもらった言葉は『早く元気になって戻ってこいよ』というものだったけど、ぼくは二度と戻らなかった。ぼくはもうイマジネーションが枯渇してしまったんだけど、ブライアンはそんなことなかったんだね」と語っていた。

その後、グラハムは神秘主義哲学のスーフィズム研究のためインドへわたり、その後、モロッコ、ギリシャ、メキシコ、アフリカなどを旅して過ごし、80年代以降はロンドンで暮らしていた。

ブライアンはグラハムについてこう回想している。「グラハムはこれまでぼくが一緒に働いてきたなかで最も面白い人物のひとりだった。ミュージシャンとしてのぼくの成長にとっては欠かせない存在だったし、特に初期の頃には踏ん張りどころやインスピレーションの源泉としてぼくはグラハムを頼っていたんだ。本当に面白い人物でね、ジャック・ケルアックの『路上』のような、そんな存在だったんだよ。グラハムのことは好きだったし、ロキシー・ミュージックはグラハムなしには存在しえなかっただろうね」
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