『ゆとりですがなにか』第9話に向けて

明日、第9話が放送となる宮藤官九郎脚本のドラマ『ゆとりですがなにか』。
僕は、第2話放送時のブログでこのドラマについて以下のように書いていた。
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今の日本の社会はみんなの損得を合計すると明らかに割りが合わないように感じる構造になっている。
「どっかが割りを食う」
その被害者意識と、それでも何らかの形でこの社会を生きていかなければならないときに心の中に生じるニヒリズムにどう向き合うか。
それでも信じられる正義が残るのかに徹底的に向き合うのが、この宮藤官九郎脚本のドラマ『ゆとりですがなにか』。
特定の世代を攻撃したり擁護する内容ではなく、むしろそんなことばかりが行われている現実の不毛さに立ち向かい、全世代に向けて前向きな答えを導こうとする作品だ。
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その第2話の時点で、太賀が演じる「ゆとりモンスター」後輩社員・山岸のセンセーショナルなインパクトなどがかなり話題になっていたが、そこから実は意外にゆっくりとストーリーが進行していき、しかも山岸が改心し、成長していくという流れも想像していなかった人の方が多いのではないだろうか。
僕も、多くの視聴者が悪感情を持った山岸がこてんぱんに懲らしめられるといったわかりやすい展開を想像していなかったかと言えば嘘になる。
でも1話1話をしっかり噛み締めながら観て、いろいろな世代のいろいろな性格の登場人物たちが少しずつお互いに影響を与え合いながら、変わったり変わらなかったりする、そのゆっくりした展開に、このドラマの意味があるということがわかった。
出口が見つからない時代だからこそ、わかりやすい悪者を見つけて、そいつがこてんぱんに懲らしめられるという手っ取り早いカタルシスで「うさ」だけでも晴らしたいと、僕たちはつい思ってしまう。
でも出口を見つけたいと本気で思うならば、「世代」とか「格差」とか「景気」とか「教育」とか言い訳をできるだけ取り払って、ちゃんと人と人が向き合って、ひとりひとりが自分の決断をしていかなければならない。
もし山岸のような「わかりやすい悪者」に自分がなってしまったとしても、でんでんの演じる野上さんのように世間に謝罪をしなければならない立場になったとしても、失敗も恥も自己嫌悪も糧にしながら人生を続けていかなければならない。

「人と人が向き合い、ひとりひとりが自分の決断をする」

もう、このフレーズだけで拒否反応を感じる人は多いと思う。
なぜなら、それをしようした人が一番「割を食う」ように思える時代だからだ。
でも、このドラマは「そうではない」と言おうとしているのではないか、と思いながら僕は観ている。

ゆるやかだった展開は、マーチンと茜ちゃんが結婚して二人同時に会社を辞め、まりぶは植木屋を辞めると同時に逮捕と、急加速し始めた。
最初の2話とは別の意味でのセンセーショナルな展開でラストに向かい始める気がする。(古河)
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