DAOKOは赤坂BLITZで闘っていた


今年の1月にO-EASTで観たDAOKOのワンマンライブについて、このブログに僕は以下のように書いた。
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DAOKOというアーティストの表現の中心には「言葉」がある。
その「言葉」を、「歌」や「音」や「ダンス」や「映像」と融合させることによって読むものではなく触れて感じることのできるものに変える、それがDAOKOのワンマンにおけるライブパフォーマンスだ。
だからDAOKOの「言葉」が映し出されるスクリーンは、彼女の後ろではなく前にある。
DAOKOの頭の中にある世界を言葉に変えて、それをさらに言葉から解放するアートにすることで、オーディエンスはDAOKOの中にある世界に触れて感じることができる。
そのあり方が刺激的で新しい。

しかしアンコールラストの”ゆめみてたのあたし”で彼女は、そのスクリーンもない、ダンサーもいない、すべての演出を取り払ったところで歌った。
でもDAOKOの中にある世界は、そのライブ空間にいたすべての人に共有されていた。
DAOKOは、泣きじゃくりながら歌っていた。

まだ彼女は18歳の女の子だが、自分がひとりじゃないということを音楽によって確かめることができる、こんな瞬間を夢見ながら、その孤独な世界を一切、侵食されないように、でも丁寧にその世界を一緒に紡いでくれる仲間を見つけて対話と試行錯誤を重ねながら、ずっと音楽活動を続けてきたのだろう。
そしてDAOKOはその夢を叶え、それは「誰もひとりじゃない」というメッセージになった。
DAOKOは、本物の夢を見せる、本物のアーティストだ。
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彼女は、もともとインターネット/SNSに出会うまで人と思うように繋がることができなくて、だからこそDAOKOの音楽表現は生まれた。
しかし今、彼女はDAOKOを幻影としてのアイコンから脱却させ、そこに実体を持たせようと格闘しているということが今日のライブからはよくわかった。
今月リリースされたシングル『もしも僕らがGAMEの主役で / ダイスキ with TeddyLoid / BANG!』から、“ダイスキ with TeddyLoid”のMVが今日、公開されたが、まさにこの映像のように今、彼女は自分と徹底的に対峙しながら、自分の音楽を求める人の前に堂々と立てるDAOKOになろうとしている。
本人はとにかく必死だったと思うが、観る側にとっては、それまで触れようとするとホログラフィーのようにすり抜けていったDAOKOが、確かな手触りと体温を持つ存在として目の前に現れたのはエキサイティングだった。
DAOKOが、これからどこまでその音楽の本質を守りながら確かな実体を持つアーティストとして進化していくのかが楽しみだ。(古河)
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