当サイトの「JAPAN編集部日記」を見て、へえー、井上貴子、
bridgeでD'ERLANGERのインタビューやったのか、
読むの楽しみだなあ、とか思いつつ、その次のブログも見たら、
「CIPHERとTetsuが44マグナムのローディーをやっていた」という記述があった。
それを読んで、思い出しました。完っ全に忘れてた。
44マグナムのローディーをやっていたD'ERLANGER・CIPHERの
そのまたローディーと、バンドを組みそうになったことがあります、私。
ぴったり20年前。バブル全盛期。バンドブームの嵐が、日本中に吹き荒れていた頃。
僕は京都に住んでいて、大学生で、バンドをやっていたんだけど、
2年ちょっと活動したところで、「世はこんなにバンドブームなのに、
お客は全然増えないし、オーディションに出してもひっかからない、
ってことは、ダメってことなのではないか」
という、大変に冷静なリーダー(ギター。2歳上。私はドラムでした)の
発案により、解散した。
で、大学の4回生に上がるところだったので、他のメンバーは就職活動に
突入していったりしたが、僕は就職する気がなかったので、
バイトをしつつ、次のバンドを探していた。
で、どこそこでドラムを探しているときけば会いに行ってみたり、
音を合わせてみたり、それで断ってみたり、逆に断られてみたり、その合間に
知り合いのバンドのヘルプをやったり、というようなことをしている時に、
そのローディーくんと会ったのです。
「バンドを組もうとして、ドラムを探している奴がいる」と、
知り合いに紹介されて、会ったんだと思う。
その知り合いが誰だったか、それでどこでその人と会ったか、
誰が一緒にいたかとかも全然憶えてないんだけど、
その、ギタリストだという彼のことは、なんとなく憶えている。
髪が長くて、色が白くて、華奢な感じの、化粧したら映えそうな顔だった。
当時、D'ERLANGERは、既にインディーズで絶大な人気を誇っており、
全国区のバンドになっていた。
で、その彼は、ギターのCIPHERのローディーをやっていたけど、
自分でバンドを組もうとして、メンバーを探していると。
歳は、僕と同じだったか、ひとつ下くらいだったと思う。
で、どんな音楽やりたいとか、どんなバンドがやりたいとか、いろいろ
話したけど、彼は、その頃のビート・パンク全盛のバンド・ブームがイヤみたいで、
「隣のお兄ちゃんがやってるみたいなのはイヤやねん」と、しきりに言っていた。
そういうんじゃない、日常感がない、触れられない人、カリスマ性ばりばり、
みたいなバンドがやりたいと。
で、僕も、バンド・ブームに抵抗があったのは一緒だけど、ただ、好きなのは、
隣のお兄ちゃんみたいなバンドばっかりで、自分でもまさにそういうことが
やりたかったし、自分がそんなカリスマチックなバンドをできるとは
到底思えなかったので、「んー、なんか俺とは違うかも」と思い、
そのまま連絡しなかった。
向こうからも連絡がなかったので、「やっぱり違うと思ったんだろうなあ」と、納得した。
で、そのままになりました。
今思うと、その彼が、一定期間、すべてのライブについていたような、
本当のローディーだったのか、それとも、何度か機材運びを手伝った程度の、
「自称ローディー」だったのかは、わからない。
って、僕もそうだし。ここでよくネタにしている、「高校生の頃、奥田民生がユニコーンの前に
やっていたバンドのローディーだった」という話も、大雑把に「ローディー」
とか書いているけど、実際は、何度か機材を運んだり、チケットを売ったり、
ライブで売るテープのダビングを手伝ったりしたことがあるだけだ。
たとえば、サンボとかやってるミネさんや、フラカンなどをやっているQ太郎みたいなプロから見たら、
「それローディーじゃないよ。ただのパシリだよ」ってもんだと思います。
きっと今でもそうだと思うが、ライブハウス界隈って、こういう「○○の後輩」とか
「××の友達」みたいな話が、そこらじゅうに転がっている。
本当なのも、嘘なのも、「嘘とは言わないけどそこまで親しくないだろおまえ」みたいなのも含めて。
僕が自分の体験として知っている、広島と京都でもそうだったんだから、
東京なんて、もっとそうだと思う。
特に、ライブハウスが密集している下北沢界隈なんて、普通にプロが
うろうろしているわけだし。ママチャリの前と後ろに、子供を乗せたりして。
それは、曽我部恵一だ。
中古屋で、真剣な眼差しで、エロDVDを探していたりして。
それは、峯田和伸だ。
明日は私、「京都音博」で京都です。
写真は、くるりが2006年にリリースしたベストアルバム
『ベストオブくるり/TOWER OF MUSIC LOVER』。
ジャケットが京都タワーなので、なんとなくこれにしました。