欅坂46の東京ドーム公演、そして全国ツアーを観て思うこと

欅坂46の東京ドーム公演、そして全国ツアーを観て思うこと
欅坂46の、初の東京ドーム公演が終わった。

無事に終わったと言いたいのか、ついに終わってしまったと言いたいのか、ついにここまで来たと感慨を込めて書きたいのかわからないが、でも、このドーム公演は、ちゃんと観ることができてよかったと、この場にちゃんといられてよかったと、ただそう思わせてくれるライブだった。
とても生々しい、集中力の途切れるところのない、のっぴきならないライブだった。
最高に欅坂46だった。

聴き手の人生に関わることが音楽の宿命のひとつだとして。聴き手の人生にどれだけ深く関わることができるのかがアーティストの無二さを決めるものなのだとして。
欅坂46の音楽も、そして、欅坂46自身も絶対的な価値を持っていると思う。
欅坂46の音楽に似たものは他に何もない。
相反する感情を等価に描き、アンビバレントで脆い、しかし凛と澄み切った潔白さを持ったグループも他にない。
過敏で脆い自意識をめぐる歌が、どうしてここまで真っ直ぐに人を見ることができるんだろう?と感じるほどの確信めいた強さで放たれていく。
その剥き出しの脆さは、何かを突きつけるように飛びかかってくる。
その時、僕はなにか、純化されていくような気分になる。
そして、考え方がシンプルになっていく自分を感じる。
そこで思うのは、ひとつひとつのことをごまかさずに生きていこう、できる限りそうやって生きていこう、なんていう青臭いことだったりする。
欅坂46の楽曲の世界観にあるように、無防備に過敏に生きていくことはいまさらできないが、ほんの少しでいいから、そういう部分をなくさずにいたいとは思う。
少なくとも、欅坂46は僕の人生に深く関わっている。

欅坂46のライブでは、すべての体験が極端な形でやってくる。
自分が知らなかったくらいに喜怒哀楽が高ぶることもあるし、強い衝撃を食らい嘘のように落ち込むことも、目の前の時間がたまらなく切なく過ぎていくこともあるが、すべての瞬間は突然訪れる。
不思議なのは、そういった「振り切れた」体験が、いつも違う曲で、いつも異なった流れでやってくることだ。
「いつも同じ欅坂などない、今日は今日の欅坂が、明日は明日の欅坂がいる」ーーと書いたことがあったが、このツアーほど、それを実感したことはない。
初日の仙台、ファイナルの福岡、そして東京ドーム2日間とライブを観たが、一人ひとりのあり方は律儀なくらいに生々しかった。
心が揺れ、迷い、成長していく痕跡が、ありのままに刻まれているようだった。
初日と、今日の欅坂はまるで違う生き物だと思った。

そして、「毎日、瞬間ごとにまるで違う」欅坂46の、そんなかけがえのなさの真ん中にいるのは、やはり平手友梨奈だと思う。
これまでも今日も、これからも平手は、欅坂46の本質であり続けるのだと思う。
あの、文字通り全身全霊を注いだようなパフォーマンス、万全の状態を超えて向こう側に転げ落ちてしまうような集中力は今日のドームで過去最高の、最高潮のレベルの冴えだった。
何かを背負ったような、そうすることを決めたような姿勢だと思った。
ただただ曲から受け取った「今感じる」メッセージを、そのまま表現していくようなパフォーマンス。
そのあり方は、歌や振り付けや段取といった言葉では表現しきれず、今この瞬間の平手の生き様を、そのまま見ているだけ、と言ったほうが近いものだろう。
同じ曲でもまったく違う「解釈」をしてしまうその繊細な感受性は今日、どこにもいかず、今日だけの、この瞬間だけのあまりに素晴らしいパフォーマンスとして表現されていた。
ステージに出るまで自分が、曲から何を感じるのかわからない。この生き方はどう考えてもしんどいものだ。
それでも、2時間以上のステージの真ん中に立ち続け、最後に”不協和音”をやり、さらに”角を曲がる”を歌いきることに決めた平手の決心は、今日、また巨大な壁を超えて、欅坂46の行く先を照らし出してみせたのだと思う。

欅坂46はどんなアイドルグループにも似ていない。
というより、昨日の欅坂と今日の欅坂すら似ていない。
瞬間ごとに変わっていくグループ・欅坂46のこれからから、まだまだ目が離せない。
あらためてそう思うツアー、東京ドーム公演だった。
本当に、素晴らしいライブだった。(小栁大輔)
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