モリッシーとジョニー・マーは間違っているのか

モリッシーとジョニー・マーは間違っているのか

モリッシーとジョニー・マーが、英首相デヴィッド・キャメロンについて共闘している。この1件は、ジョニー・マーが、ザ・スミス好きを公言しているキャメロンに、「好きとか言うな。ザ・スミスを禁ずる」とツイートしたのが発端。これに加勢するかたちで、今度はモリッシーが「キャメロンは平気で狐狩りに興じている。このような人間にザ・スミスを聴いてきたなどと言われたくない」とアンオフィシャル・サイトに声明を発表している。

これは正しいのだろうか。というか、そもそも曲を作った当人に、それを聴く者を選ぶ権利があるのだろうか? こういう人には聴いてほしいけど、こんなヤツには聴かせたくもないなどということは正しいのだろうか?

原則を言えば、いくらその曲の作り手とはいえ、その表現の受け手を選ぶ権利はないと思う。というか、そもそも表現は、作り手すらからも独立したものだ(そうでなければ、そもそも「表現」ですらない)。だから、それを渡したり受け取ったりする空間において、誰かしらが権力を発動する場面はない。もっと言ってしまえば、「表現」を前に作り手も受け手も平等なのである。

しかし、だからといって、それが「表現」を越えて、あるいは別の機能として、利用されることに意義を唱えることができないかというと、そういうことはないと思う。この場合、受け手は「政治家」である。「政治家」において、すべての発信情報が何がしかのメリットへの期待と不可分なものであるということは論を待たない(そういうことはない、純粋に好きなものを好きだと言っただけだ、ともしキャメロンが主張するとしたら、そのような「打算」のない「政治家」はナイーヴにすぎるし、単に無能である)。どんなことでもいい、自身の人柄を表すようなエピソードをふれまわるとき、そこには、たとえば好感度への期待がある。

だから、モリッシーとジョニー・マーが言うべきだったのは、ザ・スミスを政治に利用するな、という一言でよかったと思う。あるいは、「聴くな」ということではなく、政治家キャメロンがどうなのかを批判すればよかったと思う。いや、そんなことではなく、ただ単純に、「オマエが嫌いだ」と言えばよかったのだと、ザ・スミス・ファンのひとりとしてそう思うのである。
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