ストライプスとチャボのライブを観て思ったこと

ストライプスとチャボのライブを観て思ったこと
昨日はチャボのライブ、一昨日はストライプスのライブだった。63歳の日本の誇る素晴らしいギタリストであるチャボと、17歳のイギリスの新人バンドであるストライプス、国籍も年齢も大きく離れているが、ともにロックの古典とどう向き合うかというテーマが共通するライブだった。
チャボは3日間続けて行われた恒例のバースデー・ライブで、各日テーマがあり、昨日はカバー曲をやる日だった。
ストライプスは言うまでもなく、オリジナルと同じくらい、あるいはそれ以上にロックの古典のカバーをアルバムでもライブでも取り上げることが、バンドの基本姿勢となっている。
このセットリストを見ても分かるように、ストライプスのライブは正直、そりゃシー・シー・ライダーをやってローリン・アンド・タンブリンをやってルート66をやれば盛り上がるに決まっているだろう、というありがちな突っ込みを入れたくなる要素が常にある。
しかし、その翌日のチャボのライブを観て、そうした突っ込みが余り意味がないことに気付かされる。
チャボのカバーは、歌詞がオリジナルであるところが凄い。決めのフレーズや曲のテーマはオリジナルを踏まえているが、ほとんどの歌詞は彼のオリジナルである。それが彼のカバーをやるときの流儀だ。聞いていてとても楽しいし、何かとても自由な感じがする。その理由をいろいろ考えて僕なりに思いついたのは、彼がオリジナルを全面的に信頼し、その信頼から自分で歌詞を書くことを許しているからだということだった。
オリジナルな歌詞で歌っても原曲の世界は動じないし、むしろ原曲の輝きは増す、そんなものこそが古典なのである。チャボのライブを観ていると、それがとても良く分かる。
少し言葉を変えるとロックの古典は我々の共有財産なのだ。演奏すれば盛り上がることが決まっているなんて、一種の魔法である。僕達は偉大な先人達の力でたくさんの魔法を手に入れることが出来た。
その魔法を使うことの楽しさをストライプスは良く知っている。そして魔法は、使い方によっては全然魔法にならないことも良く知っている。魔法をうまく使うこと、それは立派な表現であると分かっているのだ。年齢も国籍も違うアーティストが、同じ時代の空気を呼吸していることで、同じロックの古典との向き合い方をしていることが感じられる幸せな2日間だった。
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