2020年代になって日本のポップミュージックが急激に歌謡曲化している、その理由

2020年代になって日本のポップミュージックが急激に歌謡曲化している、その理由
そもそも僕がロックを聴き始めた理由は、歌謡曲が嫌いだったからだ。
日常の些細なドラマ、恋愛、日々の後悔やささやかな願いなどをわかりやすいメロディーで歌う歌には興味がなかった。
だからロックを聴いた。
世界の終わりや、宇宙や、巨大な欲望や、恋愛を超えた愛を、聴いたことのないビートやメロディーで歌うロックに興味があった。
でも、やはり日本は歌謡曲の国だ。
僕が子供の頃からずっとそうだし、今でもそうだ。
スタイルとしてのロックやポップがこれほど根付いても、結局日本人の耳と心に深く広く沁みわたるのは歌謡曲のメロディーだ。
時代によってどれだけ音楽スタイルの流行りが変わろうと、歌のメロディーはいつだって歌謡メロである。
今の時代も、スタイルはロックやポップやヒップホップだとしても、そこに乗って流れているのは歌謡曲のメロディーであり、そのメロディーの大衆性こそが今でもヒットの最大の要因になる。

この傾向が、最近さらに急激に強まっていることにみなさんお気づきだろうか。

SpotifyでもAppleMusicでも世界中の音楽が好きに聴けて、NetflixでもHuluでも世界中のコンテンツが好きに観れて、ビリー・アイリッシュにもBTSにもいつでも出会えるこのグローバル化された時代の中で、日本は逆に日本国内のアーティストたちの音楽をひたすら聴いているという「ガラパゴス」な道を突き進んでいるわけだが、そんな状況の中で、よりはっきりと「歌謡メロ」というものの存在感と主張が強まっている。

今という時代は、実は歌謡曲の黄金時代なのである。

音楽シーンは、ロック、ポップ、シンガーソングライター系、ボカロ系、歌い手系などなど今っぽいジャンルやスタイルで分類されているように見えるが、それは表面的なことで、音楽そのものは「歌謡曲」と「それ以外」、とに分かれる。
そして圧倒的に強いのは歌謡曲である。
YOASOBIも、King Gnuも、あいみょんも、大ヒットした曲のメロディーは歌謡曲ベースである。
Adoの” うっせぇわ“もそうだし、瑛人の”香水“もそう。
米津玄師の“Lemon”は歌メロが歌謡曲でリズムがヒップホップという構造で歴史的な大ヒット曲になったし、宮本浩次もソロになってから歌謡曲のメロディーを全面に出した曲で勝負して、さらに歌謡曲カバーアルバムを出して大ヒットとなった。
一方で優里の”ドライフラワー“は意外と歌謡メロではなかったり、また、ヒゲダンもいかにも歌謡曲的に聴こえるが、実はそうではなくて洋楽ポップスのメロがベースになっていたりして、そのへんを聴き分けるのも非常に面白い。

少し時代を振り返ってみよう。

例えば、BUMP OF CHICKENやRADWIMPSの曲には、歌謡メロはほぼ無い。
エルレガーデンやアジカンやワンオクの曲にも、歌謡メロは全くと言っていいぐらいに無い。
つまり、00年代や10年代の頃は、洋楽から影響を受けたアーティストたちがそれぞれ自分たち独自のメロディーを確立して、その独自のメロディーの総体が「J-POP」と呼ばれていたわけである。

ところが今の2020年代では、ジャンルやスタイルにおいては多様化して進化したように見えるが、メロディーに関しては歌謡の海へとふたたび戻ろうとしている。
J-POPのスタイルやジャンルが多様化して進化して、歌謡メロディーをあらためて新鮮な切り口で表現できるようになったから、みんな安心してそこへ戻ってきたのである。
その海は豊かで、日本人の感性にとても合っている。
日本語のリズムやイントネーションにもとても合っている。
(逆に言えば、洋楽的なメロディーに日本語の歌詞をあれだけアクロバティックにフィットさせるヒゲダンの藤原の技術は超絶的である)。

ビリー・アイリッシュやザ・ウィークエンドやテイラー・スウィフトやドレイクの曲が上位に並ぶ世界のチャートとはまったく異なる日本のチャートは、これからますます日本独自の歌謡曲の最新バージョンのオンパレードになっていくだろう。
テレビの音楽番組を観ていても、コロナ禍に入って、なおさらその傾向に拍車がかかっているのを感じる。
そして今の日本の、めちゃくちゃハイスペック化してハイブリッド化した歌謡曲は非常に面白いと、歌謡曲嫌いだった僕は最近思うのである。(山崎洋一郎)


ロッキング・オン・ジャパン最新号『激刊!山崎』より
山崎洋一郎の「総編集長日記」の最新記事
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