こうして上下巻にまとめられた2冊の「書」を目の前にすると、あらためて一つの幸福な時代の終わりを感じる。音楽という言葉がみんなにとって同じ意味を持ち、時代という言葉がみんなにとって同じものを指し、状況という言葉がみんなにとって同じ印象で受け取られていた時代。そんな時代に渋谷陽一は「音楽」「時代」「状況」という言葉を何度も何度も使って、最大限にその意味を機能させながら、音楽を聴くことの先に広がる大きな普遍性を読者と共有するために、評論原稿を死の直前まで書き続けた。
どの原稿にも、「見えている人が見えているものを見えていない人に見せる」知性と言葉の力が満ちている。
死後、彼はよく「論争の人」という言い方をされていた。ヘヴィー・メタル論争、トーキング・ヘッズ論争、中村とうよう論争、日本のロック論争など確かに何度も論争していた。ただ、今になってみると、その論争は勝ち負けや主張ではなく、我々が絡め取られている幻想を剥ぎ取り、立ち位置を確認するための契機として機能することを狙っていたのだということがわかる。今という「時代」の「状況」における「音楽」のありようをロジックによって地図のように指し示しながら音楽リスナーの現在位置を確認するというのが渋谷陽一の評論であり、個人の信条や主張によって右だ左だと訴えることとはむしろ真逆だった。だから渋谷陽一は大のハードロック好きだがヘヴィー・メタルを批判し、売れる音楽を大肯定するにも関わらず産業ロックを批判し、ロック評論家のメインプレイヤーでありながらディスコブームの真っ只中でアース・ウインド&ファイアーばかりを聴きまくり、60年代のロックフェス幻想に批判的であったにも関わらず2000年代にはフェスのプロデューサーとして活躍したのだ。真の意味で有用なナビゲーションのように、その「時代」と「状況」の中で「音楽」が向かうべき方向を指し示すためには、信条や主張で行き先を論じるのではなく常に本当の意味で批評的でなくてはならない。渋谷陽一は70年代も80年代も90年代も00年代も10年代も、そして亡くなるまでの20年代も、常に真の意味での批評家だった。
だが今、渋谷が行なったような批評のスタンスを貫くことはあまりにも困難だ。「時代」という言葉、「状況」という言葉、「音楽」という言葉ですら、もはや共通言語になりえないほど意味が分断されている。「ロック」も、「大衆」も、「希望」も、「絶望」も、もはや何を指し示す言葉なのか誰も明確でないまま流通だけはしている今においては、閉じた考察や偏狭な論破合戦は量産されるが、批評が機能することは極めて困難だ。GPSがない状態でナビゲーションマップだけをみんながそれぞれ起動している状態。そんな中ではぶつかり合いは多発するし、信用できない道案内人が続出するのも当たり前だろう。
だが一つだけ言えるのは、音楽を聴く人の心の中に生まれる感情とエネルギー、音楽を聴くときに獲得できる新たな感覚と視点、それは60年代であろうが現在であろうが変わらずにあるということだ。そしてその感情や感覚の先には普遍的ななにかがあるという予感もおそらく変わらずに人々は感じているということだ。
それを確認し合うための新たな言語を獲得して機能させることができるかどうか。
渋谷陽一がやったことを本当の意味で理解して血肉化することは、懐古や振り返りではなく何よりも今とこれからの音楽を考えることにおいて重要なのだと感じる。(山崎洋一郎)
『メディアとしてのロックン・ロール 渋谷陽一評論集 1972-1996』
版型:四六判 初版発行日:2026/6/9発売 ISBN:978-4-86052-141-7
ページ数:512ページ 定価:2200円(税込)
『メディアとしてのロックン・ロール 渋谷陽一評論集 1997-2025』
版型:四六判 初版発行日:2026/6/9発売 ISBN:978-4-86052-142-4
ページ数:504 ページ 定価:2200円(税込)
【上巻】
【下巻】