米津玄師×じん(自然の敵P)の対談とRADWIMPSのシングル『五月の蝿』について書きました。(発売中のJAPAN今月号「激刊!山崎」より)

 今月号の記事の中で僕的にもっとも面白いと感じたのは、米津玄師×じん(自然の敵P)の対談中での以下のやりとりだった。

じん「たとえば『愛してる』って言うとしたら、それって目の前の人に言ってるのを想像するんですけど、『それがアルバムの12曲目の話で』っていう感覚なんですよ。俯瞰で見れないものに対しての恐怖感はすごいあって、盲目的に、盲目的にって作ってCD出しますってできないんですよ。『ちょっと待てよ』って一回僕は見たくて。そういうのってないすか?」
米津「ああー。昔までそういう作り方してたんですけど、考えてもしょうがないなって(笑)。所詮って言うと言葉悪いですけど、自分の自意識のなかで物作るしかないじゃないですか。なるたけ冷静にフラットなものの見方をしたいとは思うんですけど、フラットであるってことはものすごく退屈なことだなって思うようになって」

 22歳の稀代のクリエイター2人の、この2つの視点の相違(実は『共通認識の確認』なのだが)は、ロック/ポップのあらゆるアーティストが常に内に抱えるテーマであり、ロックとポップの境界線で常にせめぎ合うテーマでもあり、現在の音楽状況を語る上でもっとも本質的なテーマでもある。つまり、普遍的な、永遠のテーマである。それをこの2人は、早くも自分の問題として自分なりに消化し、現時点での自分なりの答えに基づいて乗り越えようとしている。そして、その結論がはっきりとそれぞれの作品として提示されている。表現者として、最初からその出発点の高さと、そこからさらに目標に到達するまでの速さと正確さには、やはり驚くしかない。「山崎はロック、ロックとうるさかったくせに最近はボカロ界隈も採り上げたりするんだな」と言われたりする今日このごろだが、彼ら2人が形だけのロック・バンドよりもよほどロックのテーマと真正面から向き合って、高い意識と鋭いアプローチで誠実に速く的確に突き進もうとしているのは明らかである。こういう才能が出現した時にそれを疎外するようなら、ロックは終わる。

 話が逸れてしまったが、自意識とそれを俯瞰する視点とのバランス、あるいはそのバランスからの逸脱/逃走、そしてその先の到達点とはなにか―――こうした問題意識は、海外では80年代初頭から、日本では90年代終盤あたりからロック・ミュージックの問題意識としてデフォルト設定されている。特に、2000年代以降は、一見バランス感覚だけを重視して作られたかに聴こえる音楽の中に個としての深い思想が注入されていたり、逆に、個の魂の叫びのように聴こえる音楽が実は多くの人にいかに受け入れられるかが俯瞰の視点で計算しつくされて作られていたり、もはやそのテーマは完全に実践の中で肉体化されている。今月号で巻頭特集したPerfumeの”ポリリズム”を最初に聴いた時に、ポップとしてこんなにも完璧にパッケージされた曲の中にこれだけ現代的かつ普遍的なメッセージを込めた中田ヤスタカの手腕に驚いたし、逆に、本来ははぐれ者のための反社会的なメッセージだったパンクが今やこれだけ多くの人に熱く支持されるのは、メロコアが確立した受け入れられやすいパッケージ感があるからなのは明らかである。今の時代は、米津玄師とじんが語っているようなテーマと向き合って答を見い出し、自分なりにその答を肉体化した表現でなければまったく通用しない。

 そして今、そういう意味でももっとも衝撃を受けているのがRADWIMPSのニュー・シングル『五月の蝿』である。容赦ないショッキングな言葉を吐きながらただひたすら一人の人間に対して憎しみを突き刺し続ける、ラッド史上もっともエゴイスティックで凶暴なシングルである。では、野田洋次郎はこれまでのバランスのリミッターを外して才能と勢いにまかせてエゴを解放したのか? 洋次郎、病んでる? そうではない。この曲にはむしろ、タフな客観性がある。この歌詞をこんなふうに歌う野田洋次郎の歌を聴いていると、彼が確信を持って、ラッドのこれまでの歩みの延長線上の真っ直ぐ先にある音楽に向かって進んでいるのを感じる。全くブレていない。たぶん、今のラッドはめちゃめちゃ調子いいんじゃないかな。僕はそう感じた。

米津玄師×じん(自然の敵P)の対談とRADWIMPSのシングル『五月の蝿』について書きました。(発売中のJAPAN今月号「激刊!山崎」より)
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