そもそもしっかりしている上に、レコーディングやツアーのたびに経験を血肉化していく各メンバーのプレイ、今回もグレードアップしていた(特にリズム隊)。毎回必ず爆笑を巻き起こす、アドリブ6割仕込み4割(推測)・自虐6割他虐4割(これも推測)のヤマサキ セイヤ(Vo・G)のMC、今回も絶好調。そしてバンド全体のテンションやパワーや破壊力、このツアーにおいても激しく右肩上がりのまま。
途中、ヨコタ シンノスケ(Key・Vo)の機材トラブルで本来セットリストに入っていた某曲をやれなくなる、というアクシデントがあったが、そのトラブル対応中の時間にセイヤがキーボードを「弾けへんくても黒鍵だけを弾けばそれっぽくきこえる」とか言いながらポロンポロン弾いて、そのフレーズを元に全員でアドリブで演奏、セイヤが歌をのっける――というレアな光景にみんな大ウケ。かえって得したかも、というムードになっていた。
で、ゆるむことなく、たるむ瞬間もなく、アンコールまでかけぬけて終了。この人たち、このまま短距離走ペースで上がり放題上がった末に、『キングスマン』の最後のシーンみたいに、華やかさとコミカルさとシリアスさが入り混じった感じでパーンと砕け散ってしまうんじゃないか、という、よくわからない恐怖まで感じるほどだった。
というか、どんなにおもしろくても、どんなに笑えても、どんなにばかばかしい瞬間でも、観る者聴く者を不安に巻き込んでいくデッドエンド感というか、ある種の危うさのようなものが、キュウソネコカミのライヴにはある。この日もそうだった。いや、よりいっそうそうなっていた、ライヴバンドとしてのレベルが上がっていくのに比例して。
なんで。考えを進めたり抽象化したりすることによって、その最初のインパクトが薄れるのがイヤだから、生々しくなくなると困るから、ヒリヒリ感が消えると意味がないから、ではないかと思う。たとえば、真心ブラザーズが2001年に書いた“人間はもう終わりだ!”には《俺は暴力が怖くて眠れねえ》というラインがある。思いっきり直接的な書き方だが、これがキュウソの“DQNなりたい、40代で死にたい”だと、《ヤンキーこわい》と、さらに直接的になる。というようなことだ。
以上、キュウソの持つデッドエンド感と、直接性にこだわる創作方法がダイレクトに結ばれているのかどうかはわからないが、なんとなく結びついているんじゃないかなあと思ったので、書いてみました。(兵庫慎司)