今日のSEは、ライドの“ドラムス・バーン・ダウン”。ステージが青白いバックライトに照らされ、4人のシルエットが静かに浮かび上がる。ライブ前のリキッドは、立ち込めていた熱気で蒸し暑いくらいだったけど、登場した彼らはそのテンションをクールダウンするかのような妙な落ち着きがあり、黒シャツのボタンをきちっと上までとめた小林を筆頭に、メンバー4人はモノトーン基調のモードなたたずまい。そして、小林が右手を突き上げて一閃、静まり返るフロアを切り裂いたのは“para”だった。
不協和音スレスレの轟音と、時折見せる豊かなきらめきが、はち切れそうなテンションでぶつかり合うスリリングなツインギター。まるで悲鳴のようにシャウトする小林のボーカル。それらは1つにまとまるというよりは、互いに傷つけあうようなサディスティックさがあるのだけど、バンド内にMという対象がいないからなのか(実際にはいるかもしれませんが)その溜りに溜まったエネルギーをそのままロックのダイナミズムとして聴き手に叩きつけるのがTHE NOVEMBERSのサウンドだと思う。
その反面、今年3月にリリースした『paraphilia』では、視界が内ではなく外へと向けられ、サウンドもいくぶんエモーショナルで開放的になり、彼らの陽性さが垣間見えた作品だった。だから、ライブにも変化があるはずだと踏んでいたが、全く逆だった。彼らがライブで作り出す極限まで張り詰めた緊迫感は、和らぐどころかいっそう崇高なものになっていたのである。
それを何よりも証明していたのが、アコースティック・ギターに持ち替えて小林が歌った“mer”だ。CDだとかすかに聴こえるオルガンのようなアンビエントサウンドは、ライブではケンゴマツモトのリバーブを用いたギターに差し替えられている。生々しくリアルな音とそれを拒否するかのように空想世界を遊ぶ二つの相反するギターサウンドは、歌詞にも相関して、「現実」と「空想」といったキーワードが浮かび上がり、別々の独立した音として聴こえる。だから、自分の今聴いている音が本当にその楽曲の一部分なのか、主体がうまくつかめなくなるのだけど、それを辛うじてつなぎ止めているのが小林のボーカルだ。そこには身を削って歌うような姿はないし、楽器の破壊的なアンサンブルもない。確かに擦れそうな声でシャウトするのが彼らしいとも思うけど、こういった王道バラードみたいな伸びやかな歌声で、触ったら崩れてしまいそうな精巧な空間を作り上げていることは、新たな発見だった。
「2日くらい前までドクターストップがかかっていまして、毎日点滴を受けている状態でした。これはウケてないですか? 捨て身だったんだけどなー」という小林のMCには驚いた人も多いはず。(それにあまりウケてなかったし、余計心配になった人、多いと思う)だから、そこからの終盤戦、救いようのない絶望感を吐き出すことで、それが逆に救済へとつながるような“こわれる”、狂ったように頭を振り乱し、ギターを叩きつけるように鳴らす“白痴”の2曲は、観ているこっちが不安になるほど、捨て身のパフォーマンスで見るものを圧倒していた。アンコールは“ア_-オ”、“バースデイ”、そしてダブルアンコールは“picnic”で 2時間弱のライブは幕を閉じ、オーディエンスはようやく魔法がとけたかのように肩の力を抜いていた。
その魔法のような空間を誰よりも理解し、誰よりも体現しているのがTHE NOVEMBERSのオーディエンスだと思った。歓声もないし拳を突き上げてジャンプしたりもしない。ちょっぴりしどろもどろな小林のMCでも、どっと笑いがおきるわけではなく、おそるおそる笑うといった感じで、その張り詰めた緊張感は曲が終わっても、MC中でも完全にほどけることはない。小林の問いかけに対して、誰かが応えるわけでもなく拍手でレスポンスする場面には思わず笑ってしまったが、これも相当珍しい光景だ。しかし、ひとたび楽曲が始まるとそのステージに向けられた視線はどのバンドのライブよりも鋭く、熱く、ストイックである。オーディエンスはバンドを映しだす鏡のようなものなんだ、そんな当たり前のことに改めて気づかされたファイナルだった。(古川純基)