デビュー・アルバム『ビート・ピラミッド』から最新作『ヒドゥン』へと、(ザ・フォールの曲名から拝借した)バンド名に恥じないアンチ・ポップでアンチ・メインストリームの源泉を探るマナーをさらに加速させたTNPが、さらに極端かつプリミティブな快感原則を提示してみせたのがこの日のライブだった。来日直前に紅一点のソフィーが脱退し、現在のTNPはギター&ボーカル&サンプラー、ドラムス、キーボード&パーカッションの3人。ベースはいない。今回はそこに木管楽器2人をサポートに加えた5人編成でのパフォーマンスである。木管&キーボードのデリケートな和音と共に幕を開けたライヴだが、とにかくこのバンドはギターを弾かない。ギターがフィーチャーされた楽曲は全体の3割にも満たなかったのではないか。バンドの最も重要なパートを担っているのはリズムの心臓部としてのドラムスであり、最も重要でないパートがリズム製造器として最も脆弱なギター(そしてボーカル)であったことは明白で、パフォーマンスの推進力も、起爆力も、そして表現力も、ほぼすべてが多種多様なリズムとビートに一任された格好の極端な内容だ。フォーマットとしてのロック、スタイルとしてのポスト・パンクが維持されていたのはもはやアンコールでプレイされた“エルヴィス”だけだった。
管弦楽団から和太鼓まで従えて大風呂敷を広げた『ヒドゥン』の世界観を、リズムとビートの粒子へと粉々に叩き潰し、原初からもう一度構築し直していくような、そのプロセス自体を使命としていく様は、何かを生み出しているようでありながら、同時に何かを破壊していく矛盾が渦巻くすさまじいものだった。しかもぶっ叩かれるタムと完璧に同期して光を放つバックライトといい、見事にコントロールされた破裂音のようなエフェクトといい、ロシアの無声映画のサントラを想起させる憂鬱な木管の通奏低音といい、彼らのそれは粗暴なパンクの破壊衝動とは程遠い恣意性に満ちたコンセプトであり、彼らのなけなしの美学のもとに行われている行為に他ならない。
この日のTNPのライブを観て真っ先に思い出したのは、昨年同じくDuoで観たホラーズのライブだった。ホラーズも、そしてこのTNPも、頑固に、盲目に、ストイックに、ある種の宗教のような頑なさで歩を進めた先に孤独と光を同時に見出すような切実なライヴをやったのだ。(粉川しの)