開演は18時7分。暗転した舞台の上、薄い幕の向こうに跪いた鬼束ちひろがゆっくりと立ち上がり、歌い出す。オープニングに選ばれたのは、彼女が活動を再開してから最初に作られたアルバム『LAS VEGAS』の1曲目、“Sweet Rosemary”だ。ここ数年彼女の作品のプロデュースを行っている坂本昌之と、彼が弾くピアノ、そして演奏者に音を返すアンプの前に飾られた枯れ果てた造花だけが置かれたステージで、鬼束ちひろが緑色のドレスを翻しながら優しく歌い上げる。「アコースティック・ショー」と銘打たれた今夜のコンセプトが一発で理解できる幕開けだった。2曲目の“青い鳥”に入ると、曲調の違いもあり、一気に声量が増す。その迫力に腰を抜かしそうになっていると、畳み掛けるように歌われる3曲目“everyhome”ではそこからさらに声が伸びる。エンジン全開となった彼女のあまりにも凄すぎる歌唱に、始まってほんの10数分でもう全身に鳥肌が立ってしまった。とにかく比肩するものが見当たらない歌。そもそも鬼束ちひろの音楽は、過去のどんな音楽に影響を受け、どの要素を抽出して出来上がったかが(例え彼女自身が影響受けた対象を語る場合でさえ)極めて見えづらいものだと思う。また、これだけの規模の音楽家でありながら、未だに鬼束ちひろを正しくフォローできたニュー・カマーは現れていない。つまり、デビューから11年、アルバム6枚を発表した今なお完全なオリジナル。孤高の花。それが鬼束ちひろなのである。では、そんな鬼束ちひろの音楽が、詞・曲・歌唱が(演奏よりもこの3つが占めるウェイトが大きいと思う)、フルの状態で稼動したときに何が起こるのか。「鬼束ちひろ」を飛び越えて、「鬼束ちひろを内包する世界」が聴き手の頭の中に現出するのである。すなわち、彼女の感情の動きだけでなく、彼女にこの世界がどう見えているか、どんな世界をどう生きているかが丸々流れ込んでくるのだ。少なくとも僕にとって鬼束ちひろの音楽は、今日のライヴは、そんな体験だった。やっている音楽の種類も性別も国籍も異なるけれど、音楽に宿す情報量の一点において、ポップ・ミュージックの世界ではちょっとエミネムくらいしか浮かばない、この次元にいるのは。
アーティストでありながらお願いして作ってもらったという自分用のバックパス(普通はスタッフ等関係者しか下げないものなので)を始まる前に、終わった後にはピック(最後の“Beautiful Fighter”は今日唯一のギター弾き語りで披露された)をそれぞれファンに手渡すなど、サービス満点だった2曲のアンコールを入れて、全14曲。約90分。最初にセットリストをもらったときは正直、約10年ぶりのツアーなのだからもう5、6曲くらいやってくれればいいのに、なんて思っていたのだけど、とんでもなかった。脳だけに留まらず全内臓が感動に満たされたような充足感で、閉演のアナウンスが流れてからもしばし身動きがとれなくなくなるくらいだった。満足という言葉では気分としてとても追いつかないほどの満足感。だから、今日は本当に文句なしなのだけど、できるだけ早く次のライヴが見たい。できれば、何度も。期待してます。(長瀬昇)
<セットリスト>
1.Sweet Rosemary
2.青い鳥
3.everyhome
4.琥珀の雪
5.Time After Time(Tuck & Petti)
6.The Rose(Bette Midler)
7.月光
8.蛍
9.嵐ヶ丘
10.EVER AFTER
11.私とワルツを
12.ストーリーテラー
アンコール
1.NEW AGE STRANGER
2.Beautiful Fighter