《わたしをフッてんじゃないよバカ フッていいわけがないでしょ》
強烈なフレーズだ。これは“酸欠少女”さユりが先日リリースしたニューシングルの表題曲“フラレガイガール”のサビの歌詞である。ちなみにこの曲のAメロは《愛をひろいあげた手のぬくもりが 今もまだ残るのです/「これさえあれば」とお互い口にして すべてを分かり合った》といった具合に詩的なのにも関わらず、サビに入ったらいきなり「バカ」呼ばわりである。
“フラレガイガール”は、突然の別れに唖然とした後、そのセンチメントを振り払うかのように強がりを口にしてしまうという、実に女性的な心の機微が1曲を通して表現されている。この曲は楽曲提供、プロデュースともにRADWIMPS・野田洋次郎が務めている。
“フラレガイガール”ミュージックビデオ
「RADWIMPS」というバンド名は造語だが、意訳すると「マジスゲーびびり野郎」だったり「見事な意気地なし」という意味らしい。そんな言葉から連想される通り、と言っては語弊があるかもしれないが、野田の書く歌詞は、強者による健全的なそれというよりは、弱者の立場の繊細さや、後ろめたさ、人間の完璧ではない部分をもさらけ出しているものが多い。それは人間、誰もが持っている部分であって、演歌や歌謡曲はそういった曲も多いが、時代が進むに連れいつの間にかどんどん前向きで明るい応援歌や「一歩踏み出す」ことを促すような歌が増えた気がする。
もちろんそれは悪いことではなく、そうして無理に自分を奮い立たすことがエネルギーになったりするが、人間、やっぱりダメな時はダメなのである。そんな時に直接胸にドカンと飛び込んできてくれるのがRADWIMPSだったり野田の楽曲なのだ。
野田が楽曲提供をするのはこれが初めてではない。Charaやハナレグミ、Aimerといったアーティストにも曲を書いており、もはや言うまでもないが最近でいうと映画『君の名は。』で劇伴と主題歌を担当した。去年にはエッセイを書き、映画にも出演、そして近々の作家活動と、目まぐるしくいろんな場所へ飛躍し続けている野田だが、彼の本質はどこへ行ってもブレていない。
例えば去年、野田はハナレグミへ“おあいこ”という楽曲を書き下ろした。これはハナレグミのアルバム『What are you looking for』に収録され、ミュージックビデオも公開されている。この曲もまた“フラレガイガール”と同じく、別れを前に感情的になってしまった心境が描かれており“フラレガイガール”は女性、“おあいこ”は男性が主人公だ。
“おあいこ”ミュージックビデオ
《ずるい ずるい ずるい/僕はずるい ずるいよ》
失恋ソングは世の中にたくさんあるが「幸せになってね」なんて言えるのは自分から別れを切り出したか、失恋して3ヶ月くらいたった時の心境だろチクショウと、私は常々感じている。しかし、“フラレガイガール”“おあいこ”はどちらも失恋してまだ気持ちの整理がついていない、ぐしゃぐしゃな感情が切り取られている。
自分の期待がこてんぱんに崩された時、人間はそう簡単に冷静になれるものではない。「どうして、なんで」という気持ちが駆け巡り、誰かを責めたい気持ちも湧いてしまうだろう。本当は誰もがこんな気持ちを経験しているが、それを出すのは一般的に恥ずかしいものとされている。少し時間が経つにつれて、大体の人は発達した理性のおかげでなんとか立ち上がり、冷静に振る舞えるようになっていくし、前向きな気持ちも芽生える。でも、その前の動揺している部分こそが人間の弱みがモロに出たり、一番心が震える時間だから、そこを切り取る野田の歌詞は特別に人間らしく、刺さるのだと思う。
《泣いて追っかけてきても もう許したりしないから/いつか天変地異級の 後悔に襲われりゃいい》
“フラレガイガール”の曲の最後、いよいよ「天変地異」なんて言葉が出てくるが、それほどに打ちのめされ、感情的になった彼女を「振られ甲斐がある」と「ガール(女)」をかけてポップに作品化し、さユりの少し舌足らずで、ハイが強いボーカルを楽曲の世界観にピタリと当てはめた。本当は隠したい邪さを否定せず、ぐしゃぐしゃな感情のまま花を添えて額縁に飾ってくれる、このやり方こそ、野田の特異な表現方法といえよう。(渡辺満理奈)