【考察】岡村靖幸が30年以上にわたってシーンに強烈なインパクトを与え続けるのはなぜか?

先週金曜日に放送された『ミュージックステーション』にDAOKO × 岡村靖幸が出演した。

DAOKOは“打上花火”に続いて2度目の登場となったわけだが、岡村ちゃんはなんと意外にも番組初登場。ついにこの時が来たか、と放送前から全国のベイベ(岡村ちゃんファンの愛称)たちの気持ちは昂ぶっていたことだと思う。


私もこの放送を観たが、パフォーマンスとその後のSNSでの反応を含め、改めて岡村ちゃんは、どの時代・どの世代にも常に新しいものとして映し出されるのだと感じた。時代に合わせて自分の音楽性やスタンスを変化させていくようなことはしていないのに、いつだって岡村ちゃんというアイコンが色褪せない魅力を放ち続けているのは、やっぱり彼の突き抜けた表現が簡単に真似できるものではないからだ。

音楽だけに限らないが、表現にはルーツ(原点)があり、それに倣うだけでは新しいと言われるような作品は生まれないし、自らがルーツとなり得るような影響力は与えられない。実際、岡村ちゃんもプリンスを始め、ブラックミュージックや歌謡曲の影響を受けたことを公言していたこともあったが、そのルーツはすでに岡村靖幸というアイコンに吸収され、誰にも真似できない新しいジャンルとして生まれ変わってしまっている。それが出来得るかどうかは、生まれ持った才能というよりほかにないのかもしれない。


そんな岡村ちゃんというアイコンは、大きな3本柱から成り立っている。第一に、19歳にしてすでに作曲家としてのキャリアがスタートしていることからもわかるように、音楽を生み出す才能が圧倒的であることが挙げられる。一度聴いたら口ずさめてしまう飛び切りキャッチーなメロディ、日本人離れしたファンキーなリズム感、その一方で日本人に馴染み深い歌謡曲の影響が感じられるポップスや叙情的なバラードといった多様性を持ち、デビュー当時はまだ日本に根付いていなかったブラックミュージックの風をJ-POPシーンにごく自然に吹かせたとも言える。

続いての魅力は「恋」や「性」について綴った奔放な歌詞。特に『靖幸』、『家庭教師』あたりの作品は、未だにイヤホンがないと再生するのを躊躇ってしまうほど過激な曲もある。しかし、岡村ちゃんのセクシャルな歌声をイヤホンで聴く自分に背徳感を感じながらも、この瞬間だけ曝け出せるナルシズム、ロマンチシズムが人知れず育っていく快感があったのは私だけではないだろう。最近の作品はあからさまにセクシャルな歌詞はないものの、メガネにダークトーンのスーツという今のスタイルと相まって、「落ち着いた大人の色気」という新たな魅力を生み出しつつある。


そして岡村ちゃんを構成するこれらの魅力をより輝かせているのが、パッションが爆発しているキレッキレのダンス。ソロデビュー以前、作曲家として活動する中で、たまたまレコーディングスタジオでダンスをしている時に「輝いている」とプロデューサーに見出されたことがデビューに繋がったのは有名な話だ。先日の『Mステ』でも視聴者に強烈な印象を残したそのダンスのキレと輝きは、50歳を超えた今もなお健在である。


改めてこうして岡村ちゃんの魅力を文字にしていくと、本当に何にも似ていないことがわかる。例えばロックバンドを語る際に「爽快感あるメロディと、元気を与えてくれるような歌詞」という言葉を使うと、いくつかのバンドが思い浮かぶが、「セクシャルな魅力とキレキレのダンス」はもう岡村ちゃんしかありえない。しかしこの独立した才能を自分だけのものにせず、DATE(岡村ちゃんのライブ)と称してベイベたちありきのエンターテインメントとして昇華することを第一に考えるのが、岡村ちゃんの本当に凄いところだ。インタビューなどを読むと、音楽に対しての追求心や、自分の表現に対してかなりシビアな視線を持っていることが伝わってくる。だからこそ多くのアーティストからも憧れられるし、「岡村ちゃん」というアイコンとして、常に表現の世界から求められ続けているのだろう。(渡邉満理奈)
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