ゲスの極み乙女。の楽曲が連作によって先が読めない深みを持つのはなぜか?

ゲスの極み乙女。の楽曲が連作によって先が読めない深みを持つのはなぜか?
例えば、“キラーボール”と“キラーボールをもう一度”など、ゲスの極み乙女。には関連性のあるタイトルが付けられた曲が多い。それらの曲は同じアルバムに収録されているケースもあれば、アルバムを跨いでいるケースもあり、結びつきの強度も様々。しかしいずれにせよ、そうして何らかの意味性を付与することにより、リスナーに考察のきっかけを提供してきたことには違いない。この記事ではこれまで彼らが発表した連作曲を紹介。その関係性について改めて考えてみたいと思う。(蜂須賀ちなみ)


“両成敗でいいじゃない”と“続けざまの両成敗”

2ndフルアルバム『両成敗』の1曲目と2曲目。この2曲に共通しているのは曲の中で扱うテーマ。相手を言い負かし、晒し上げにすることばかり考えている人はこちらの話なぞ端から聞くつもりなんてないわけで、そのような人と争うことは何よりも不毛である。そんななか、匿名を盾に取り、都合の良い編集とともに言葉の槍を投げる人々のことが《信念の上澄みだけを吸い取って笑う/なんて上手いんだ/勝てないな》(“両成敗でいいじゃない”)、《己に返る痛みがない人と/吐き出しあっては/キリがない嘘と本当と嘘を掴みあっては嘆く》(“続けざまの両成敗”)と、真実が容易に構築され転覆する様が《大差ないんだって/善も悪も違わない》(“両成敗でいいじゃない”)、《白になったつもりでも/裏返って黒になる》(“続けざまの両成敗”)と表現されている。時代や大衆に対する諦念とやるせなさのようなものが歌われたこの2曲が冒頭に連続して配置されることにより、アルバム全体の空気が決定づけられている。

“無垢”と“無垢な季節”

“無垢”は『両成敗』に、“無垢な季節”はシングル『オトナチック/無垢な季節』に収録。前者がピアノを伴奏にしたポエトリーリーディングであるのに対し、後者は疾走感あるアッパーチューン。2曲を連続して再生するとまるで繋がっているように聴こえる。自ら書いた手紙を読み上げているような“無垢”の静けさに比べると、テンポが速くビートの細かい“無垢な季節”は性急な印象さえある。《無垢な季節が来たら迎えに行くよ》と締めた“無垢”のラストからいよいよ主人公の時が動き出した予感を感じさせるが、おそらく“無垢な季節”で歌われている内容は回想であり、この物語はハッピーエンドではない。《僕だけがいつも取り残されて/夏が終わっていく》というフレーズに胸が締めつけられる。

“いけないダンス”と“いけないダンスダンスダンス”

夜になり、寝室で一人きりになった途端、脳内を様々な感情が巡り、眠れなくなってしまった経験がある人も多いだろう。『両成敗』収録の“いけないダンス”がそれを表現した曲だとしたら、3rdフルアルバム『達磨林檎』収録の“いけないダンスダンスダンス”はその翌朝から再び夜を迎えるまでの曲。川谷絵音(Vo・G)、ほな・いこか(Dr)の独白はままならない日常をどうにか生きる日中の彼らのゆるやかな絶望を、そこにちゃんMARI(Key)が加わってからの女性陣の掛け合いは心の葛藤を言い表しているよう。トリミングされたピアノソロ、《ダンスダンスダンス》のリフレインとともにアンサンブルはカオスを極め、トランス状態に突入。再び“いけないダンス”に興じる夜が訪れる。

“id1”と“id2”と“id3”

“id1”は『両成敗』に、“id2”、“id3”は『達磨林檎』に収録。いずれもギターの音色やコーラスを基調としたやわらかな手触りをした曲に仕上がっている。ゲスの極み乙女。のアンサンブルは技巧的で、次に何が起こるか予測不可能な展開が持ち味である。アルバム分の曲数があるとかなりの情報量になるため、途中にこういった曲が挟まることによって、空気を入れ替わる感じがある。

“私以外私じゃないの”と“私以外私じゃないの2”(人選のセンス)

『第66回NHK紅白歌合戦』出場時にも演奏された、ゲスの極み乙女。の代表曲にして2015年を代表するヒットソング“私以外私じゃないの”。2019年5月に突如現れたゲスの極み乙女。のライバルを名乗るバンド・人選のセンスのデビュー曲“私以外私じゃないの2”は、タイトルこそオマージュだが、歌詞や曲調は異なるもの。《私以外私じゃない》という共通のワードを用いた“~2”は、他人の目を気にして素直に振舞えない人の背中を押すような内容でありつつも、他人を揶揄してばかりで自分の人生を生きられずにいる人を皮肉る内容でもある。因みにこの原稿を書いている時点でも人選のセンスのメンバーやコンポーザーの正体は不明である。

“キラーボール”と“キラーボールをもう一度”

ゲスの極み乙女。の2枚目のミニアルバム『踊れないなら、ゲスになってしまえよ』のリード曲“キラーボール”は、その完成度の高さから、このバンドのすごさを広く知らしめる存在となった。それから約6年の時を経てリリースされたのが“キラーボールをもう一度”。“キラーボール”は4つ打ちを土台にメンバーがプログレッシブなプレイを炸裂するダンスチューンだが、“~もう一度”の方はファンク色が強め。ブラスの音色がバンドサウンドを彩るなか、休日課長(B)のアグレッシブなプレイが光る。ゲスの極み乙女。は登場時から演奏力の高いバンドとして注目されていたが、こうして2曲を聴き比べてみると、やはり結成当時の方が勢いで突っ切っているような青さがあり、今の方が洗練されているように思う。因みに、“キラーボールをもう一度”というタイトルには「過去の自分たちを超えていきたい」という意思が込められていたとのこと。《キラーボールをもう一度/もう懐かしくならないように/湯掻いた魂でもう一度だけ/どこまでも行けるような歌を》というサビのフレーズからもそういう種類の切実さが読み取れる。
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