U2のボノ、ルー・リードへの追悼文を米『ローリング・ストーン』誌に寄稿

U2のボノ、ルー・リードへの追悼文を米『ローリング・ストーン』誌に寄稿

10月27日に他界したルー・リードについてU2のボノがローリング・ストーン誌に追悼文を寄せている。

ボノは長い追悼文の中でまずはルーにとってのニューヨークについて次のように思いを馳せている。

「作家ジェイムス・ジョイスにとってダブリンという都市が完璧な宇宙であったのと同様にニューヨークはルー・リードにとってそういう存在だったはずだ。ニューヨークにいれば街を出なくても、ルーの愛の歌や憎しみの歌にとってのモチーフは掃いて捨てるほどあった。『メタル・マシーン・ミュージック』から『コニー・アイランド・ベイビー』まで、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドからメタリカとのコラボレーションまで、ルーが人生を捧げたニューヨークという都市こそルーにとってなによりも自身の歌の神となったものだった。少なくとも20年前にローリー・アンダーソンがルーの人生に登場するまでは、ルーにはニューヨークという都市のノイズしか愛の対象はいなかったはずだと断定しても過言ではないだろう。たとえ、人間とは馬鹿なものだと思ったところで、きっとルーは、でもニューヨーカーは他より頭がいいと思っていたはずだ」

さらにボノはルーとの出会いやルーの特異なユーモアを次のように振り返っている。
「ルーに初めて会ったのは1986年にアムテスティ・インターナショナルのコンスピラシー・オブ・ホープ・ツアーでのことだった。ルーはエッジとはギター・サウンドの話で盛り上がり、ラリー(・マレン)とはバイクの話で盛り上がり、僕とはジェイムス・ジョイスの話で盛り上がり、そしてぼくの記憶が正しければ、アダム(・クレイトン)とは人間関係についてずいぶん話し込んでいたように思う。ある時、ルーはガールフレンドに自分のバイクを貸すことに同意してしまったことについてどれだけ嫌悪感を感じているかと話してきたことがあった。というのも、その彼女という人物はルーの車高の低いバイクでちょっとした事故を起こしてしまい、結局、バイクも破損してしまったことをルーは明らかに腹を立てていたのだ。そこで僕が事故後、その彼女は元気なのかと訊いたら、ルーはあの乾いた口調で、『ボノ、彼女なんてものはいくらでも替えが利くんだよ』と言ってみせたのだった」

また、ボノはルーがアートとは予想もしなかった形で美を見出すことだという考えをそのまま体現するアーティストだったと綴っていて、その代表作として"パーフェクト・デイ"挙げている。この作品は公園の中を温かい陽射しを受けて、あるヘロイン中毒患者が散歩して「完璧な1日」だという感慨に耽ることのアイロニーを伝える内容になっているが、この人物がそもそも自分をヘロイン中毒に追いやった問題をすべて忘れていることによって、"パーフェクト・デイ"における完璧さは一層増しているとボノは指摘していて、「自分が種を蒔いたものは必ず収獲(仕打ち)として還ってくる」というくだりには今も心をえぐられると解説している。

さらにルーという存在をボノは次のように振り返ってみせている。
「ルー・リードはポップ・チャートにヘロインについての歌を送り込んだ、アンディ・ウォーホールのファクトリー出身の頽廃的な怪物だと片付けるのではあまりにも安直すぎる。これほど事実からかけ離れたイメージはないからだ。実際のルーは思慮深く、瞑想を実践する、極端なまでに自分を律する人間だった。ドラッグ・ユーザーとしてかつて感染した肝炎が再発するまでルーの体調はトップ・コンディションにあった。自身の身体の柔軟性と血色のよさをもたらしていたものは太極拳だとルーは説明していた。僕は次のようにルーのことを思い出すだろう。メタル・サウンドの台風の目の中で静止する、ポップ・カルチャーという捉えどころのない虚無の中から形あるものを取り出してみせるアーティストにして、詩人イェーツが『汚らしい現代の潮流』と呼んだ不調和の中からメロディを紡ぎ出してみせるソングライターとして、そして人を射抜くような鋭い視線の周りに様々なおかしみを漂わせていたポップ界最大のポーカーフェースとして」
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