SEKAI NO OWARI、京セラドームでの「タルカス」最終公演を観て。少し長いです

SEKAI NO OWARI、京セラドームでの「タルカス」最終公演を観て。少し長いです
初日のさいたまスーパーアリーナ公演以来、2度めの「タルカス」だったが、やはり圧倒的なショウだった。

4人それぞれのパフォーマンス(4人の一体感、ではなく、本当にそれぞれのパフォーマンス)はこの上なく素敵だった。
4人それぞれが巨大なセンターステージの四隅に立ち、90度の視界を受け持つ、というシビアなスタイルがセカオワが持つそもそものポテンシャルをさらに覚醒させた感覚があった。
このライブはそんな新たなセカオワ像を際立たせることに成功した、セカオワ史上でも最も重要なツアーだったと言ってもいい。

ただ、「タルカス」が持っている本当の素晴らしさは、彼らが今あらためて「音楽とは何か?」というテーマを問い直してみせたことなんじゃないかと僕は思っている。

音楽は何のために存在しているのか?

音楽はただ音楽そのもののために存在しているんじゃない。
ビジネスのために存在しているわけでもない。
音楽は、伝えたいことのために存在しているし、するべきである、というメッセージ。
あくまでも、「伝えたい思い」を伝えるために音楽というメディアがあるのだ、というスタンス。
だから、楽曲に対する圧倒的な上位概念として、「世界観」があり、「メッセージ」がある。
つまり、世界観を描き、メッセージを伝えるためのメディアとして、セカオワの音楽は存在している。

ひとつの物語を半分に折り返すように、ライブ自体を半分に分ける、という発想を持っているバンドなど、きっと世界中にセカオワしかいないだろう。
まず物語とメッセージありき。
その「線」の中に、「点」としての楽曲を正しく配置していく。
既発曲であるのか新曲であるのかはあまり関係なく、「線」=物語を支え、エモーションを喚起する装置として楽曲を打ち込んでいく。
確信的で革新的な考え方だと思う。

だが、その「新しさ」は、セカオワというバンドの思想において、あまりに「当たり前」なのだと思う。
世界観とメッセージを伝えるために必要なものは、たとえ過去に例がないものだとしても、当たり前に「必要」なものなのだ。
進むべき道をただまっすぐに進むバンド、それがSEKAI NO OWARIであり、僕たちがこの4人が愛しくて仕方ない理由もきっとそのピュアさにある。

本当に素晴らしいツアーだった。
JAPANでもまたじっくり書きたい。
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