いつも通りのオアシス、
つまりは最新アルバムから数曲と、誰もが認める必殺のアンセム連発、なわけで、
一方、もちろん、新ドラマーお披露目あり、
リアム悟空ヘアありといったスペシャルもあるのだけど、
とにかく、今回のオアシスに感じた最大の驚きは、
エゴイズムの消失、だった。
オアシスといえば、それはあのキャラクターであり、
それは傲慢ともとれる振る舞いをもって公然と告知されてきた。
自分たちが一番で、自分たちがもっともロックで、、、
さまざまなトラブルやスキャンダル、そして、
もちろん曲そのもののスケールすらも、
そういった「前提」を強力な背景にして引き起こされ、
生み出されてきた。
自分は自分でなければならないといった彼らの命題は、
いうまでもなくエゴイズムであった。
ところが今回のステージからは、
そうしたものがものの見事に消失しているように感じたのだ。
あいかわらずリアムはオーディエンスを睥睨しているし、
ノエルの統率によって放出される音の圧力には微塵の躊躇もなかった。
しかし、それでもそこには、かつてあった、
エゴイズム、簡単に言ってしまえばアクのようなものがなかったのだ。
考えてみれば、彼らはもうこれらの「定番」を15年も
演奏してきているのである。
多少なりとも枯れのようなものが出てきてもそれは仕様がないことかもしれない。
しかし、それはそういう慣れや円熟のようなものというよりも、
もっと別の何かだと思った。
それは、音楽とその担い手(である自分)との、力学の変化のようなものだ。
今夜、目の前にいたのは、
「この名曲を書いた俺/歌う俺」ではなく、
「その音楽に献身的に従属する俺」だったのだ。
すべてのフレーズをありったけの大声と、同時に慈しむような愛情をもって
シンガロングするオーディエンスと同じ姿勢で、
曲に真摯に誠実に向き合う彼らがいたのだ。
今夜は、ロックンロール・スターよりも、歌がいちばんエラかったのだ。
言うまでもなく、そんなモードは、
素晴らしいパフォーマンスとなって結実していた。
リアムが最後にマイクを客席に渡す、
それはあまりにもシンボリックな行為ではなかったか?
阿呆みたいだけど、ようやくブリット・ポップが終わった、そんな気がした。