昨晩からの続き。
彼らの音を聴いているときに感じるのは、
美しいとか気持ちいいとか、そういう「結果」より以前の、
もっと単純な、ぞわぞわする感じのようなものだ。
それは、自分の普段のパーソナル・テリトリーを越境して
侵入してきた「誰か」に、
気持ちがざわついてしまうことに似ている。
DIRTY PROJECTORSの新しさは、そこにある。
それは、誰かの歌を聴いているという従来の感覚ではなく、
実際にそこに誰かがいるという感覚なのだ。
だから、それは悲しいとか嬉しいとかのその前の、
ただひたすらに生々しい、名づけようのないものとしてある。
ANIMAL COLLECTIVEにしても、
GRIZZLY BEARにしても、
いま意識的なミュージシャンがなにを意識しているかといえば、
声であり、レアーな響きである。
それはつまり、ヒューマンの、いま現在でのあり方、ということである。
そういうふうに見ていくと、
DIRTY PROJECTORSのそれは、よりいっそうの、渾身の抵抗に聴こえてくる。
モニターに表示される数字にしかリアルのない野放図な資本主義と、
地球の果ての殺戮によって、
「ひとの存在感」を追いやり、奪い続けたブッシュの目の前に立って、
「殺してみなさい」とでもいっているような、
そんな音楽にぼくには聴こえてしょうがないのだ。