ノエルへの手紙

ノエルへの手紙

たまにテレビを点けていると、CMでケミカル・ブラザーズの「Setting Sun」が流れてくる。
この、「30年後のTomorrow Never Knows」は、こうして久しぶりに聴くと、新鮮だ。
もちろん、ここで歌っているのは、ノエル・ギャラガーである。
そういえば、オアシスの「Whatever」も使われているけど、これって何度目だっけ?

日本時間の今日未明に発表されたノエルの「ソロ始動」発言に、
かよわきオアシス・ファンの心はまたかき乱されている。
わかっていたこととはいえ、本人から言われてしまうのは、
嫌いだとはうすうすわかっていたけど目の前で別れ話を切り出されたみたいなもので、
エキセントリックな気分になるのもしょうがないとは思う。

とはいえ、だ。そもそも僕たちはどういう音楽が聴きたいのだろうか。
言うまでもなく、それは素晴らしい音楽だ。
素晴らしい音楽であれば、それがどういうひとのどういう経緯によるものでも関係ない。
であるならば、ノエルが作る音楽に、リアムの声があろうがなかろうが、それは問題ではない。
リアムのボーカリストとしての傑出した才能については、
あらんかぎりの賞賛を捧げることにはむしろ積極的だという前提を踏まえて言っているのだけど、
要は、ノエルのこれから作る音楽を「リアムが歌う」ことは、
その素晴らしさについての必要条件でも十分条件でもないということを言いたいのだ。
ということは、「リアムが不在である」ということについても同じなのだけど。

というか、むしろ、これからのノエルのソロ・ワークは、
「オアシスとは別の」という留保が取り払われたという点で、期待は否応にも高まったと言うべきだろう。
以前からその制作が囁かれていたとしても、彼のソロは、オアシスという母体、言い換えれば担保を失ったことで、
トム・ヨークやジュリアン・カサブランカスのソロとは決定的に違った意味合いを帯びてくる。
それはつまり、「レディオヘッドのスピン・オフ」や「ストロークスのオルタナティヴ」であることを許されないということであり、
「オアシスを葬り去る」ほどの素晴らしさを要求されるということである。

極東のいちファンがまったく勝手なことを言ってるものである。
しかし、そう考えることが、ノエルへの最大のエールだとも勝手に思っているのだ(もちろん、リアムにも)。
公式SNSアカウントをフォローする

人気記事

最新ブログ

フォローする