真逆のファンタジー

真逆のファンタジー

『かいじゅうたちのいるところ』を観てきた。

アーケイド・ファイアの「WAKE UP」が使われたマジカルな予告編を事前にたぶん30回は観て異様に盛り上がっていたのだけど、それが勝手な思い込みを膨らませすぎたのか、映画自体は誤解を恐れずにいえば非常に地味なものだった。もちろん、だからといってよくなかったかとか、そういうことではない。というか、この『かいじゅうたちのいるところ』は、普通のファンタジーとは違うのである。

優れたファンタジーとはどういうものだろうか。それは、日常生活を忘れさせてくれるほど完璧に設えられた夢見心地の世界であって、だからわれわれは、そのキラキラとした断片をいくつか持ち帰ることで、戻ってきた日常をなんとかやり過ごすことのできるような、そういうものであるだろう。壁に貼ったポスターを眺めれば、いつでもその世界を思い出せるような、そういうものだ。

けれど、もっと優れたファンタジーは、たぶん、その真逆なものなのだと思う。それはどういうことかというと、むしろファンタジーはそこに置いていけ、というようなものだ。日常は決してそのような夢の世界ではない、だからその夢は捨てなさいというようなものだ。映画の「ナウシカ」は夢の中に出てくるようなヒロインだった。けれど、それ以降も継続して描かれた漫画版の「ナウシカ」は、目を覆いたくなるような苦境の旅を巡礼した。あるいは『もののけ姫』で「アシタカ」が最後に吐く言葉は、夢との決別である。もっといえば、『崖の上のポニョ』で「宗介」が最後に試される言葉……。それらはみな、ファンタジーに住むことを剥奪されるか、かつてあった幻の世界がもはや回復されない事実を受け止めるのか、もしくは、そんなファンタジーが恐ろしくもはかないものであったとしても愛するかと問われる。みな、そこに置いておけと言うのである。

『かいじゅうたちのいるところ』も、そんな「ファンタジー」だったように思った。それは、よくあるような「少年性」の擁護を甘ったれに描くのではなく、その反対に、「少年」であることをあの場所に置いてきなさいという映画だった。ラスト・シーンの猛烈な喪失感と決定的な更新感は、そういうことなのだ。
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