ひょっとしたらトリプルファイヤーは真実の告発者なのではないか

ひょっとしたらトリプルファイヤーは真実の告発者なのではないか
サードアルバム『エピタフ』、本日発売! 最高です。

もう大好きで、というか好きか嫌いかもよく分からないままにズブズブとハマって、今はヘッドフォンで聴いてブツブツと「SEXはダサい」とか「変なおっさんに、なるー」とかつぶやきながら電車通勤をする毎日である。

現在発売中のJAPANのコラムコーナー「はみだしてます?」で上の写真のような記事を書いたのだが、そこでスペースが足りなくて書けなかったことがある。「トリプルファイヤーってものすごくシリアスなバンドなんじゃないか」ということだ。なんか、聴いているとふっと真実の沼の底に放り込まれたような感覚になることがあるのだ。

吉田靖直の書く歌詞は基本的に大したことを言っていない。だいたいが言わなくてもいいことか、何を言っているのか自分でもわかってないようなことか、シュール過ぎてイッちゃっているようなものか。いずれにしても、すべてが彼の中で自己完結している。吉田の口から出た言葉がそのまま吉田の耳に入って、それがまた口から出てくるような、そんな歌なのである。怒ったりムカついたりして文句言っているような曲もあるんだけど、それも壁に向かって言っているような感じ。

要するに、吉田の歌詞はコミュニケーションを前提としていない。言葉なのに。サウンドもそうなのである。『エピタフ』は演奏も録り音もすばらしいが、歌詞とはまったく関係なく盛り上がったり盛り下がったりしている。音と言葉のあいだにもディスコミュニケーションがあるのだ。トリプルファイヤーはコミュニケーションを求めない。そこにあるのは彼らの「何を発語したいか」「何を鳴らしたいか」という「欲望」だけであり、そこでは社会的通念や常識は通用しない。だから、その言葉と音は人間の真実そのものになっていく。

若く見えようが家具のセンスがよかろうがトラックに轢かれてトラックは何事もなく走っていく、という”トラックに轢かれた”という曲が伝えるのは、世界というものに相対した人間のひ弱さではないか。

《一回決まったんで絶対変えられなくなった》という”Bの芝生”は、自然の摂理(運命)の前にまったく無力な人間を言い表してはいないか。

”なんかしゃべんないと友達になれない”は言語コミュニケーションに依存する人間に対する警告ではあるまいか。

”ゲームしかやってないから”や”こだわる男”は屈折した消費社会への乾坤一擲の皮肉であり、”全国大会”には競争を決してやめない人間への諦観が浮き彫りになっていないか。

ふにゃふにゃと閉じた言語空間で、吉田の歌詞は真実を告発する。ここには人間の本性がある。おそろしい。だから、こんなにも注意深く、僕はトリプルファイヤーをウォッチしてしまうのかもしれない。あるいは、全然違うかもしれない。

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