マイケル・ジャクソンが自身の神がかった歌唱力について語る1980年のインタヴュー公開

マイケル・ジャクソンが自身の神がかった歌唱力について語る1980年のインタヴュー公開

アメリカの公共放送局として知られるPBSでは、これまで放送などで使われたアーティストのインタヴュー音源とアニメーションを組み合わせた動画クリップを製作してはブランク・オン・ブランク・シリーズとして公開しているが、ここにきてマイケル・ジャクソンのものを新しく発表している。

インタヴューを行ったのはイギリス出身の音楽評論家として有名なジョン・ピジョンで、1980年1月という、『オフ・ザ・ウォール』の大ヒットによりブラック・コンテンポラリーのスターとしての自身の地位を再確立したものの、その後の『スリラー』でモンスター級にヒットする前の、まだ身近な存在だった時期の貴重なマイケルの肉声を捉えたものになっている。

また、インタヴューはピジョンとマイケルの間にまだ子供だった妹ジャネット・ジャクソンを間に置くという形を取っていて、ピジョンの質問をいったんジャネットが聞いて、ジャネットがまたそれをマイケルに訊くという態勢で行われていた。

1980年当時はディスコが世界的なブームとなっていたが、アメリカでは特に保守的なロック・リスナーの間でディスコへのバッシングも激しく行われていた。マイケルはディスコとしてレッテルを貼られることについては次のように答えている。

「レッテルは嫌いなんだ、ただ音楽であるべきだからね。それにディスコのなにがいけないのかもわからないよ。♪ナナナナ(パンク的なギターの擬音を歌う)っていうんじゃ踊れないし、ディスコと呼ぼうとも、なんと呼ぼうとも構わないけど、結局、音楽なんだからね。たとえば、"あの娘が消えた"がディスコだと思う? "ロック・ウィズ・ユー"も? それはぼくにはわからないところだね。ぼくには音楽としか思えないから。鳥のさえずりを聴いてる時と同じで、『あっ、アオカケスだ』なんてわざわざ言わないよね。『こっちはカラスだなあ』とか。きれいなさえずりなだけで、それだけがわかればいいんだよ。ただ聴いていれば、鳥が空に舞っているのも見えてくる。それが美しいことなんだから」

また、自身の歌唱力や活動を突き動かすものについては次のように説明している。

「ぼくの歌っていうのは本当にできるだけ簡単に説明すると、神がかったものなんだよ。本当にね……幼かった頃にやってた歌なんて自分でもなにをやってたのかよくわかってなかったし、ただ歌ってたらそれがいい形になっちゃうだけのことなんだ(笑)。ぼくはただやってみるだけで、それでなんかうまくいくんだよ。うまく説明できないもんだし、特に個人的な経験がなにかあってこれだけ伝わるものになったとかそういうことじゃないんだ。ただ、ある感じと神様があるだけなんだ。だから、そうだね、ほとんど神様のせいだよね」

「ぼくたちがよくクジャクについて話すのを聞いたことがあると思うけど、それはどうしてかというとクジャクは鳥の中で唯一、すべての色を一つの生き物として持っているからで、そういうことをぼくたち(ザ・ジャクソンズのこと)は音楽でやろうとしているんだ。ぼくたちのコンサートに行くとお客さんはほとんどのすべての人種の人たちから成っているのがわかるんだよ。みんな手を振ったり、手を握り合ったり、笑ったり、踊ったりしてて、すべての色が揃ってるんだね。それがすごいことなんだ。それがぼくを前に進ませてくるんだよ」

あるいはヴォーカルのテイクを録る際には一気に決めてしまうのか、それともみっちり練り上げてからヴォーカルを録るのかという問いには次のように語っている。

「ぼくの場合、ヴォーカルはかなりてっとり早く仕上げちゃう方だよ。たとえば"ベンのテーマ"の時は、テイク1回で済んだんだ。スタジオに入って一発で終ったんだ。ぼくは『もっと録る?』って訊いたんだけどスタッフの人が『もういいよ、いいよ。最高だから!』って言って、『ほんとに?』って感じだったんだけど。これはまだモータウンにいた頃の話で、リンゴの木箱の上に立って歌ってたんだよ、マイク・スタンドが高すぎたからね。それで木箱にはぼくの名前が書かれてあって、その木箱は今ではダイアナ・ロスの家にあるんだよ。それとぼくが落書きとかを書きつけてた紙切れとかもたくさん持ってるんだ」

また、有名人というステイタスについては次のように心境を述べている。

「人によっては露出し過ぎたっていうことはあると思うんだ。それは事実としてあると思うよ。みんなに飽きられてしまうっていうね。そういうことがぼくの身に起きないようにぼくとしては願うだけだけど。それに、あちこちいろんなところに顔を出していたり、どこにいても見かけられるようなことは、こっちが恥ずかしくなってくるから嫌なんだ。でも、誰も知らないところで、すごく個人的なこととして、ぼくの奥深いところで、ぼくは自分の運命というものを感じているし、そこから逸れないようにしてその運命をしっかり辿るべきだと感じているんだ。ぼくが今こうして生きているのにはなにかわけがあるとぼくは信じているんだ。そして、みんなのためにパフォーマンスを行うことがぼくの仕事だと思っているし、それを受け入れてもらえれば、それだけでぼくの見返りになるんだよ。それでみんながぼくのことを持ち上げてくれるっていうんだったら、ぼくとしては余計に気分がいいよ」

また、当時としてはすさまじいヒット・アルバムとなった『オフ・ザ・ウォール』についてはプロデューサーのクインシー・ジョーンズの才覚に負うところも大きいと言われていたが、このアルバムからクインシーと組んだ経緯については次のように語っている。

「クインシーとはサミー・デイヴィス(・ジュニア)の家でずっと昔に会ったことがあったんだけど、本当の意味でクインシーと出会って、手を組むようになったのは、映画『ウィズ』の時だったんだ。本当によく知り合えるようになって、仕事での息の合い方がもう素晴らしいものだったんだよ。もう本当にすごいくらいね。それである日、クインシーに電話を入れたんだよ、『クインシー、ぼくはアルバムを作る用意が出来たんだ、ソロ・アルバムのね。でも、やるんなら本当にいいプロデューサーと一緒に仕事をさせてもらいたいんだ。だから、誰かいい人を紹介してくれないかな?』ってね。でね、別に遠回しにクインシーにやってほしいと言ってたわけじゃなくて、その時はまったくクインシーのことは思いつきもしなかったんだ。それでクインシーは『あのさ、スメリー』って言って、ちなみにクインシーはぼくをスメリーって呼んでるんだけど、『スメリー、だったらぼくにやらせてくれよ』って言ったんだ。それでぼくは『あーっ、それがあったか、それがいいや!』って笑い転げちゃって、クインシーが『じゃあ、早く始めようよ』って言うからその次の週から取りかかったんだよ。それからいろいろ計画を立てて、『オフ・ザ・ウォール』はそうやって姿を現わしたんだよ」

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