グレイトフル・デッドを発掘したマネージャーのロック・スカリーが他界

グレイトフル・デッドを発掘したマネージャーのロック・スカリーが他界 - グレイトフル・デッド 1967年作『グレイトフル・デッド・ファースト』グレイトフル・デッド 1967年作『グレイトフル・デッド・ファースト』

グレイトフル・デッドのオリジナル・マネージャーで、バンドを1965年から85年まで手がけたロック・スカリーが12月16日にカリフォルニア州モントレーの病院で他界した。享年73だった。ロックの兄でグレイトフル・デッドのマーチャンダイズを手がけていたディッケンはロックが長い間肺がんとの闘病を続けていたとニューヨーク・タイムス紙に語っている。またサンフランシスコ・ゲイト紙によれば、ロックの声帯は今年の9月に潰れてしまって喋れなくなっていたという。

グレイトフル・デッドのギターのボブ・ウィアーは次のようにロックを悼んでいる。

「ぼくたちは前へと転がって一緒に歴史を作ったんだ。人がよく本にしたり映画にしたりするようなことをぼくたちはやったんだよ。ロックはその全体の中でも本当に大きな部分を担ってくれてたんだ。ロックはぼくたちとずっと一緒に走ってくれたんだよ。曲の歌詞も全部知ってたし。人にぼくたちがどういう存在なのかわからせるために最適な言葉も知っていて、しかも特に説明することはなかったんだよね。ロックはこのバンドのなんたるかは説明できるようなもんじゃないってよくわかってたからね」

グレイトフル・デッドは1965年に作家ケン・キージーが開催していたLSDの実験パーティーで、LSDを自家製造し、各方面に提供していたオーズリー・スタンリーを通してロックと出会ったと言われている。その後、ロックはバンドのためにサンフランシスコのフィルモアでの出演をとりつけ、モントレー・ポップ・フェスティヴァルやウッドストックへの出演なども実現させることになった。また、バンドとワーナーとのレコード契約を仲立ちしたのもロックの功績だった。当時のことを振り返るようにボブは次のようにもロックを偲んでいる。

「最後にロックに会った時、ロックは不思議なものへの興味と好奇心でいっぱいで、まるでLSDの実験パーティーをやっていた頃のようだったよ。ロックのいたずら心に満ちた冒険心は同じような感性を持ち、さらに常識的な物事のやり方にはまるで関心のないバンドのマネージャーを務めるにはうってつけなものだったんだよ」

また、音楽評論家のデニス・マクナリーは次のようにロックを追悼している。

「ロックは芯が本当にやさしい人で、素晴らしいトリップを経験するというヒッピーとしての理想を真剣に追求していたんだよ。ぼくの友人が訃報を聞いて言っていたけど、もしロックがこちらに異を唱えるようなことがあったとしたら、それは必ずより高い理想を求めてのことか、最善を考えてのことだったんだよ」

ロックは1985年に薬物依存症の治療に成功することができずグレイトフル・デッドのマネージャーを解任されることになった。その後、自身の治療費を捻出するためにさまざまなグレイトフル・デッドの遺品をネット・オークションで売却していたとサンフランシスコ・ゲイトは伝えている。また、ロックの支援のために来年1月にはチャリティ・ライヴも企画されているところだったという。


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