先週日曜に前編が、そして今晩、後編が放送されるスペシャルドラマ『ゆとりですがなにか 純米吟醸純情編』。
言うまでもなく連ドラの続編を、最初のシリーズの期待を裏切らない形で作っていくにはいろいろな工夫がいるのだが、このスペシャルドラマの前編を観る限り『ゆとりですがなにか』というドラマにとって続編が作られていくのは、とても自然なことなのだと感じた。
なぜなら登場人物のおかれている状況という意味でも、描かれる社会的テーマという意味でも、何ひとつ解決はしていないからである。
そういう意味で、とても重い、だけど目が離せない、だからこそ面白いドラマなのだ。
連ドラとして放送されていたときに、自分がこのドラマについて書いてきたことをまとめると以下の通り。
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今の日本の社会はみんなの損得を合計すると明らかに割りが合わないように感じる構造になっている。
「どっかが割りを食う」
その被害者意識と、それでも何らかの形でこの社会を生きていかなければならないときに心の中に生じるニヒリズムにどう向き合うか。
それでも信じられる正義が残るのかに徹底的に向き合うのが、宮藤官九郎脚本のドラマ『ゆとりですがなにか』。
特定の世代を攻撃したり擁護する内容ではなく、むしろそんなことばかりが行われている現実の不毛さに立ち向かい、全世代に向けて前向きな答えを導こうとする作品だ。
出口が見つからない時代だからこそ、わかりやすい悪者を見つけて、そいつがこてんぱんに懲らしめられるという手っ取り早いカタルシスで「うさ」だけでも晴らしたいと、僕たちはつい思ってしまう。
でも出口を見つけたいと本気で思うならば、「世代」とか「格差」とか「景気」とか「教育」とか言い訳をできるだけ取り払って、ちゃんと人と人が向き合って、ひとりひとりが自分の決断をしていかなければならない。
「わかりやすい悪者」に自分がなってしまったとしても、世間に謝罪をしなければならない立場になったとしても、失敗も恥も自己嫌悪も糧にしながら人生を続けていかなければない。
「人と人が向き合い、ひとりひとりが自分の決断をする」
もう、このフレーズだけで拒否反応を感じる人は多いと思う。
なぜなら、それをしようした人が一番「割を食う」ように思える時代だからだ。
でも、このドラマは「そうではない」と言おうとしているのではないか。
最終回までのストーリーで『ゆとりですがなにか』は、全然立派じゃない人たちが自分の立派じゃなさも他人の立派じゃなさも受け入れながら(ある意味)立派に生きていく姿を爽やかに描き切った。
思い詰めることも現実から逃げることもなく自分が幸せになるためのことを真剣に考えながら「笑い」を忘れずに生きる、このドラマを観るとそれができるようになる気がする。
『あまちゃん』のような高視聴率を記録したわけではないが、このドラマは少しだけこの国を変えたと僕は思う。
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今回の続編には、そこまで大きな役ではないが清野菜名が演じる富田という人材派遣会社の営業担当が登場する。
彼女はゆとりと呼ばれる世代よりさらに下の、所謂さとり世代。
彼女は自分のやりがいやキャリアアップを優先するゆとり世代の「失敗例」を見てきて、転職したところで今より状況がよくなる事はない、それなら社会にも会社にも期待せずに諦めてやり過ごすのが自分たちさとり世代だと語りながら、マニュアル通りにマイナスのことを一切言わずに正和(岡田将生)にポジティブに接する。
たとえば、さとり世代が本格的に社会に出てきたことなども含めて、この1年で状況は良くなってるのか悪くなってるのかはわからないながら、ただひたすら進行している。
現実はドラマのように最終回はなくて、ひとりひとりが自分でした決断から生まれた結果の先の、良くなっているのか悪くなっているのかわからないながらひたすら進行していく現実の中で、また次の決断をしなければならなくなるのである。
正直、考えるのをやめたくなるようなテーマだが、でもこの『ゆとりですがなにか』には「笑い」という救いがある。
どれだけこのテーマに「笑い」を込められるかギリギリの戦いを脚本の宮藤官九郎、演出の水田伸生をはじめ、関わっている人全てが挑み続けている作品だと思う。
というわけで今晩10時30分からの後編、楽しみです。(古河晋)
スペシャルドラマ『ゆとりですがなにか 純米吟醸純情編』後編に向けて
2017.07.09 18:15