小沢健二がSEKAI NO OWARIとのコラボと共に新たな旅に出る理由

小沢健二がSEKAI NO OWARIとのコラボと共に新たな旅に出る理由 - 『フクロウの声が聞こえる』『フクロウの声が聞こえる』
ライブ活動やメディアへの露出、そして新作のリリースと、近頃の小沢健二の活動がとてもオープンになっていることと、世の中の動きとは無関係ではないと思っている。かつて、彼の音楽はリアルタイムでは常に驚きを持って迎えられ、その本質を正しくリスナーが理解するのには時間を要した。今や名作中の名作と言われる『LIFE』(1994年リリース)にしても、当時は多くの人に、オザケンがいきなりポップな恋愛ソングを歌い始めた、という表層的な解釈で捉えられてしまっていた。あの作品がその意味を正しく評価されるまでに一体何年かかったのだろう。“ラブリー”の《LIFE IS COMIN’ BACK》の重み、“ぼくらが旅に出る理由”で歌われる《宇宙の光》──。まぶしすぎるポップミュージックに、その本質を見過ごしてしまっていたのだと思う。その後1996年にリリースされた『球体の奏でる音楽』では、一転、はじけるようなポップネスは姿を潜め、ジャズ的なアレンジをフィーチャーしたサウンドで、『LIFE』のイメージをさらりと覆し、またもやファンを驚かせた。

その後、1998年にシングル『春にして君を想う』をリリースすると、活動休止期間に入ってしまう。小沢健二は単身ニューヨークへと渡り、日本の音楽シーンからしばらく距離を置く。この時の彼の気持ちを正しく知る由もないけれど、自身が楽曲に託して発するメッセージが「正しく受け止められない」ことへの苛立ちは常にあったのではないかと思う。決して、とてつもなく最先端の音楽や、誰もが理解できないことをやってやろうと思っているわけではないのに、むしろ、キャッチーな『LIFE』のような作品で存分に伝えようとしたにもかかわらず、それが意図通りに伝わっていないのかもしれない──。この頃はそういうジレンマも、少なからずあったのではないかと、今さらながら思う。

2002年には、すべてアメリカで制作された約5年ぶりのフルアルバム『Eclectic』が発売された。どこか官能的とも思えたこの作品。一方で、そのジャケットおよび歌詞カードでは、言葉というものを無機的に描き出すようなアートワークが、この時代特有の不穏さを醸していたし、内へ内へと向かうような内省的な歌詞は、どことなく私的な感情が表れているようにも思えた。“今夜はブギーバック/あの大きな心”という、かの名曲のセルフカバーも収録されているが、歌詞は大幅に変わっていて、どこかでこの楽曲の熱狂を鎮めるような、自身の過去への決別のようにも響いたのを覚えている。そんな、厭世的とも受け取れた『Eclectic』から4年、『Ecology of Everyday Life 毎日の環境学』(2006年リリース)は、全曲インストゥルメンタルの作品となった。肩の力を抜いて楽しめる純粋なるグッドミュージックではあったし、今でも時々引っ張り出しては聴く愛聴盤の1枚なのだけれど、プロモーション活動もほとんど行われず、言葉による一切のメッセージを排したこの作品に、やはり当時は少し物足りなさを感じたことも確かだ。彼の言葉が欲しかったのだ。でも、そうやって、私はいつでも何かの「言葉」を求めていながら、彼の言葉の本質までつかもうとしていただろうか。小沢健二は、伝えたい言葉がポップソングに乗って、深い部分まで理解されればもっと未来はよくなる、日々の営みは輝く、その希望を失わない人だったはずだ。でも、それが正しく理解されない現実とは、やはり一度距離を置く必要があったのだと思う。

変化を見せ始めたのは、2010年、13年ぶりのコンサートツアー「ひふみよ」を行ったあたりからだったように思う。それ以前から、資本主義への懐疑を綴った連載小説『うさぎ!』などで、彼の思考に触れることはできたが、それでもまだ、彼のメッセージの伝え方は限定的だった。大きな変化は、2012年の「東京の街が奏でる」と題された、東京オペラシティでの全12回の公演からだったと思う。この公演では、明らかに彼の「伝えたい」モードの高まりを感じた。『LIFE』の楽曲たちを惜しげなく演奏し、観客もその歌の本質に触れて、改めて彼の音楽の豊かさを思った。彼の意識の変化はすなわち、社会が、世界が、宇宙が、もっと多くの人に「理解される」必要があるということと同義だと思う。「わかってくれなくてもいい」、「わかる人だけわかればいい」、「時が経てば理解も進むだろう」と、そんな悠長なことを言ってる時ではない──という、この時代そのものを映し出している。

フィジカル作品としては実に19年ぶりのリリースとなった前作『流動体について』(今年2月発売)は、楽曲そのものはもちろん、それにまつわる驚くほどの積極的なメディア露出は、彼のそのモードを全開にするプレリュードだったと思う。現在の世の中の「待ったなし」の状況に、たぶん、小沢健二は初めて本気で、過去の曲も含め、今、まさに今、理解してほしい、という思いになったのだと思う。先日出演したフジロックフェスティバルのホワイトステージでの演奏では、巨大なスクリーンに自分たちの姿を映し出すのではなく、終始、すべての歌詞を大きく映し出していった。その言葉の持つ意味が、しっかりと刻まれるようなライブだった。

そして、最新作“フクロウの声が聞こえる”こそが、そんな「今理解されなければ意味がない」という思いの塊のような楽曲だとも思うのだ。絶望や混沌だらけの世の中、その世界を私たちは生きていく。でもそこに希望を見出すことはできる。絶望と同じ数だけ希望が、そして混沌を鎮めようとする秩序が存在する限り、この世界は続いていくということ。この楽曲の強さ、あたたかさは、これまでの彼の楽曲の中でも群を抜いている。もう「後から効いてくるオザケン」ではない。まさに「今、理解すべきもの」として提示されているからだ。それは年齢も属性も問わず、広く伝わるべき歌。なぜ彼がSEKAI NO OWARIとのコラボを望んだのか。そう、この予想外の共演が意味するところを、我々はしっかりと受け止める必要がある。(杉浦美恵)

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