【本人の言葉で紐解く】宮本浩次ソロはなぜ始まり、どこへ向かうのか?

【本人の言葉で紐解く】宮本浩次ソロはなぜ始まり、どこへ向かうのか?
1988年のデビューから30年間、ソロ名義の作品はもちろん他アーティストへの楽曲提供や客演も一切なく、一貫して「エレファントカシマシ宮本浩次」として音楽と向き合ってきた宮本浩次。
大きな驚愕と感激を巻き起こした椎名林檎との“獣ゆく細道”、東京スカパラダイスオーケストラと魂の共演を果たした“明日以外すべて燃やせ feat.宮本浩次”といった昨年(2018年)秋の大型コラボから、壮絶なまでの美しさを備えた名曲“冬の花”で本格的なソロ活動の幕開けへ……といった宮本のアクションが突然でも偶然でもなく、「今だからこそ」の思慮と意志に裏打ちされた必然であることは、ファンならずともその歌と音楽からリアルに感じていることと思う。
しかし今、新たなキャリアへと踏み出した「ソロアーティスト・宮本浩次」から濃密に立ち昇ってくるのは、誰よりも「制御不能な衝動の炸裂」を体現する一方で己と時代に向け続けた鋭利な知性と批評性であり、自らの音楽的な「原点」と「理想形」を真摯に対象化し具現化し得る揺るぎない作家性である。以下、ここ最近のインタビューでの発言を踏まえつつ、宮本ソロの真価を検証する。(高橋智樹)


ソロ始動のきっかけ

一昨年(2017年)、47都道府県ツアー、最後に(さいたま)スーパーアリーナ2daysっていうすごい幸せな形で、30周年を我々なんとかやりきることができたんですけれども、そのスタートが大阪城ホールだったんです。その大阪城ホールの前に、『夢を追う旅人』っていうシングルを出したんですけれども、そのときに、メンバーにもスタッフにも宣言したんですよね。「この30周年を終えたら、俺はソロを絶対やる」って。2012年に左耳が聞こえなくなったときも、当時けっこう徹夜で曲作ったり、母親が死んだりとか、いろんなことが重なって、なかなか寝る時間もなかったりして。そうすると体壊して、これはって自分で思うところもあって。大きなきっかけっていうのはそれかもしれません。自分の病気、老化。俺は、老いている。47、48でしたけど、当然20代よりは老いてるわけだし。ソロに関して大きなきっかけがあるとしたら、精神的にも肉体的にもダメージを感じた、そこだったと思います。あと、バンドも長くやってると、どんなチームでもそうだけれども、それなりに固まっていくっていうことがあって。メンバーに、30周年っていうこのタイミングで初めて47都道府県でできる、こんなに素晴らしいことはないと。スーパーアリーナまで駆け抜けて、なにしろ成功させようぜって。終わったら俺はソロをやるから、それまでは4人で頑張らないかっていうことを話していて。だからみんなも覚悟して、頑張ってやったんだと思うんですよね。それで幸い『紅白』に出たりとか、スーパーアリーナ2daysで30周年をうまく終えることができて。いい区切りで、ユニバーサルからオールタイムのベスト盤が出ましたし、ここが一番、ソロをやるのにいいタイミングじゃないかっていうふうに思ったんだと思います。
最終的にはそう(ソロとエレファントカシマシを同時に紡ぐことが可能と手応えを得た)ですね。よかったです、ほんとに。『紅白歌合戦』はその象徴ですよね。30年のエレファントカシマシの歩みをひとつ象徴するものとして、ああいう日本の伝統行事の中で歌えたっていうのは、最高の記念だったんじゃないかって。30周年のスーパーアリーナでもそう思えた。そういう意味で、すごくいい形で30周年を終えることができたんで、さらに気持ちとしてはソロに向かって、絶対これで行けるっていうふうに思えた瞬間だったんです。(『CUT』2019年3月号)

2017年3月のオールキャリアベストアルバム&デビュー30周年記念コンサートを皮切りに、初の全都道府県ツアー、さらに翌2018年3月のさいたまスーパーアリーナ2days公演(3/17:ワンマンライブ、3/18:スピッツMr.Childrenとの共演)まで、エレファントカシマシの30周年アニバーサリーイヤーを全力で駆け抜けた宮本。そんな日々の中で「バンドキャリアの黄金期を実感できたこと」が、ソロへ踏み出す重要なきっかけとして作用したことは間違いない。そして同時に、《わたしという名の物語は 最終章》(“冬の花”)という一節にも象徴される通り、宮本自身の「いつまで歌えるのだろうか」という抑え難い焦燥が、ソロデビューという華々しい響きとは裏腹な切迫感と訴求力を与えていることが窺える。

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