レディオヘッドのトム・ヨークはなぜ今夜も目をつぶって歌っていたのか

レディオヘッドのトム・ヨークはなぜ今夜も目をつぶって歌っていたのか

文句なく苗場史上最高動員をGreen Stageに飲み込んでのレディオヘッド、初のフジロック・ヘッドライナーでのパフォーマンスは、ある意味、それだけのオーディエンスが持ち込んだ空前の期待値をも悠々と飲み込んで余りあるものだった。現代ロックにおいて発明途上にある数々の最新型フォーミュラを矢継ぎ早に採用したその手さばきは、このバンドをしていまもなお新鮮で次世代を担う存在にさせていることを十二分に証明していた。圧巻、と呼ぶには、もはや余裕すら感じさせるそのたたずまいは、なにかもうはあーとため息のひとつでもしたくなるほどだった。

初日のザ・ストーン・ローゼズがすべてのオーディエンスを「仲間」にしようと試みたとするなら、この夜のレディオヘッドはいつものように「個」にした、といえるだろう。最初期のころは、アメリカ人にもわかるほどの(?)ドラマチックなロック・チューンを鳴らしていたレディオヘッドが、その後、ほどなくしてそれを嫌気し、現在では極力そうした「ロック的なるダイナミズム」から遠くなるよう、エレクトロニカと硬質なファンクネスに注力する楽曲に専念している。

重要なのは、それを構成するサウンドひとつひとつ、つまりはノイズが、非常に「綺麗」にデザインされていることだ。耳をそばだてないと聞こえないようなノイズから、フィールド全体に照射された圧倒的光量に比するノイズにいたるまで、それは、ことごとくハーモニーを持ち、美しく、我々を射抜くことはない。まるでそれは、ノイズ・キャンセリングの構造よろしく、現実のノイズをかき消すように設計されたノイズのようである。つまり、そこに現出するのは、ある意味「無音」なのだ。

阿呆なことを言うようだけど、レディオヘッドのライヴは静かなのである。というか、ひどくオペレーションの行き届いた無菌室のように、聞き手であるわれわれはおそろしく抽象度の高い空間にひとり、在らしめられる。なぜなら、レディオヘッドのノイズは、われわれを決して「傷つけない」のだから。

一昨年のAtoms For Peaceが聞き手を揺るがし右往左往させたのと違って、今夜もレディオヘッドは「誰も傷つけたくないし、誰にも傷つけられたくない」ということを鳴らしていた。そして、今夜もトム・ヨークは目をつぶって歌っていた。それは、ある意味、拒絶ともとれる姿だった。しかし、その音とその姿は、同じような思いをもった数万人によってそれぞれに受け止められていたのである。それはまるで、「すべては収まるべき場所に収まる」とでも呼ぶべき光景だった。そのために、レディオヘッドのサウンドは、冷厳なリアリズムによって設計されていた。言うまでもなく、その光景が、現実だからである。


フジ初日、ザ・ストーン・ローゼズについて書いたブログはこちら。
http://ro69.jp/blog/miyazaki/70803
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