今年でジョン・レノン生誕80年。ジョンとヨーコのパーソナル・フォトグラファーでもあったボブ・グルーエンが、自伝の中で2人の真実の姿を克明に明かしている

  • 今年でジョン・レノン生誕80年。ジョンとヨーコのパーソナル・フォトグラファーでもあったボブ・グルーエンが、自伝の中で2人の真実の姿を克明に明かしている - ©Bob Gruen 2020

    ©Bob Gruen 2020

  • 今年でジョン・レノン生誕80年。ジョンとヨーコのパーソナル・フォトグラファーでもあったボブ・グルーエンが、自伝の中で2人の真実の姿を克明に明かしている - 『Right Place, Right Time』

    『Right Place, Right Time』

  • 今年でジョン・レノン生誕80年。ジョンとヨーコのパーソナル・フォトグラファーでもあったボブ・グルーエンが、自伝の中で2人の真実の姿を克明に明かしている - ©Bob Gruen 2020
  • 今年でジョン・レノン生誕80年。ジョンとヨーコのパーソナル・フォトグラファーでもあったボブ・グルーエンが、自伝の中で2人の真実の姿を克明に明かしている - 『Right Place, Right Time』

先週10月9日は、ジョン・レノン80歳の誕生日だった。

実は、『ロッキング・オン』の最新号のコレポンのページでも少し紹介しているのだが、ジョンとヨーコのパーソナル・フォトグラファーでもあり、ロックンロールの歴史を記録してきた大御所カメラマン、ボブ・グルーエンが10月20日に初の自伝『Right Place, Right Time』を発売する。

先に読ませてもらったのだけど、この本を読むとジョンとヨーコとはカメラマンと被写体という関係ではなくて、本当の友達だったのがよく分かるし、それのみならず、レッド・ツェッペリンがプライベート・ジェットの前にいる写真を撮ったり、セックス・ピストルズの解散してしまったアメリカ・ツアーに同行していたり、そもそもプロとして初めて撮った写真が、1965年にボブ・ディランが初めてエレキ・ギターを弾いたニューポート・フォーク・フェスティバルだ。正に、『正しい場所、正しい時』にいた人なのだ。

この自伝の推薦文は、グリーン・デイのビリー・ジョー・アームストロングが書いている。

「50年以上もの間、ボブ・グルーエンは、音楽シーンの世界から脚光を浴びた瞬間を写真に収めてきた。

この本の中で彼は、ジョンとヨーコのNYのアパートでの親密な瞬間を再訪しているし、アイク&ティナ・ターナー・レビューとアメリカを横断しているし、初期のデボラ・ハリーのグラスゴー公演、キッスのバック・ステージ、CBGBの中、セックス・ピストルズの不運なアメリカ・ツアーにバスで同行し、そこで彼はシド・ヴィシャスと安全靴を交換している。あまりにエンターテイニングな話と、それを定義付ける何枚ものアイコニックな写真を撮っている。グルーエンは、50年以上にもおよぶアメリカ音楽シーンの進化をあまりに独自の視点で俺たちに紹介してくれた」


それぞれの大物ミュージシャンとの物語も面白いものばかりだし、実はアパートも持っていたくらいに日本が大好きで、で、日本を第二の故郷と思っていたとまで書いていた。日本語訳がぜひ出て欲しいとも思う。今回はジョンとヨーコについてコレポンに書ききれなかった部分を少し紹介したい。本を買ってもらうと、すべての文章に当然その場面を撮った写真がある。

●ジョンとヨーコの関係性について


「(1972年)5月にジョンとヨーコはTV番組に出演し、ヨーコが、“Sisters, O Sisters"を歌った。彼女がシンガーでジョンはサポートでギターを弾いていた。ヨーコをステージの真ん中に立たせたのはジョンで、彼はヨーコが音楽で何をしようとしているのかをみんなに分かってもらいたかった。だけど多くの人達は、ヨーコがジョンを無理矢理サポートにしたと思っていた。本当はそうじゃなかったのに。だってジョンはヨーコを尊敬していたから」



「当時ヨーコがザ・ビートルズの解散に何かしらの責任があると思っていた人達が多く、みんなヨーコに腹を立てていた。またはジョンがザ・ビートルズのようなポップソングから、よりプロテスト・ロックやアバンギャルドなジャムの曲を書くようになったのは、ヨーコの影響だと思う人が多かった」


「僕はこれまでずっと会った人達にヨーコは好きじゃないと言われることが多かった(ほとんどの場合ヨーコには直接会ったことがない人達から)。そういう人達はジョンだけが好きだった。だけどジョンはヨーコが好きだったわけだから。確かに写真に撮ると彼女は強そうに見えるし、ユーモアのセンスもないように見えるかもしれない。

だけどそれは思い違いだ。ジョンはコメディアンだったから、ユーモアのセンスがない人はジョン・レノンとはつるめない。僕は人によくこう訊かれた。『ヨーコってどんな女性?』と。僕がいつも最初に答えたのは、『ジョン・レノンが結婚したいと思うような女性だよ』だった」



●ミック・ジャガーとの共演(1972年10月撮影)


「マネージャーから『スタジオにすぐ戻ってきた方が良いよ。ミック・ジャガーがスタジオに向かってるから』と言われた。スタジオに着くと、そのすぐあとに、ミック・ジャガーが到着した。ジョンはミックを昔から知ってる同級生のように迎えていた。2人の間には長らく会っていなかった古くからの友人の信頼関係があるのがすぐに分かった。ジョンとミックはギターを一緒に弾き、ヨーコが曲を作って、ヨーコとミックとジョンで一緒にピアノに座ってその曲を演奏し始めた。

ジョンとミックの間のライバル心について書かれた記事を読んだり、聞いたりすると、僕はいつでもヨーコとミックとジョンで一緒にピアノに座って歌って笑いながら、最高の時を過ごしている写真を思い出すんだ」


●彼らの政治性について


「ジョンはものすごく政治的だったけど、でもジョンとヨーコはピースフルな人達だった。彼らがいつも言っていたのは、彼らは何かに反対しているわけではないということ。むしろ、何かに賛同したいんだ、と。つまり彼らは戦争に反対していたわけではなくて、平和に賛同していたんだ。だから彼はどんなインタビューでも必ず言っていた。僕らがシステムを変える唯一の方法は、非暴力で行なうということだと」


●1972年ニクソンが当選した日


「その日のジョンはかなり飲んでいた。僕らもみんな消沈していたが、怒鳴り付けているのはジョンだけだった。ジョンは飲み続けて、どんどんコントロールがきかなくなった。ジョンは女性を連れて脇の部屋に行き、僕らは居心地悪くヨーコと一緒に座っていた。それが、結果的にジョンとヨーコが一時的に別居する原因となったと思う。僕らのところにジョンと女性の声が聞こえてきたから」


●『ダブル・ファンタジー』の制作過程


「ジョンは新作にとりかかるとすぐにどんなジャケットにしたいかの構想があった。明け方に人々が急いで仕事に向かう中で、ジョンとヨーコが道に立っているもので、彼とヨーコが新しい日を一緒に始めるイメージだと説明した。彼にとってこの新作はStarting Over (始めからやり直す)を象徴していた。それが最初のシングルのタイトルになった」


「ジョンは劇的に変わっていた。ショーンが生まれる前は、スタジオの冷蔵庫にはテキーラとコニャックとビールの6缶と、ミキサーが置かれていたが、今はソーダとフルーツ・ジュースとビールが1缶だけになった。アルコールを飲むことはかつてのように奨励されていなかった」


「ジョンは彼の新しい責任を忘れないために写真を2枚貼っていた。1枚はショーンで、もう1枚はすごく太ったオーソン・ウェルズだった。それは過剰になるとどうなるかを示していた。ジョンはその写真があると集中できたし、責任のある生活をするためにいかに健康を保つべきなのかを忘れないようにしてくれたと言っていた」


●ショーンがスタジオに来た有名な写真


「ショーンがスタジオに来た時の、ジョンがコントロール・パネルの前で手を広げて、それをショーンが見ている写真が好きな人は多い。なぜならそれはジョンが、ショーンに音楽の世界の魔法を見せるように紹介しているように見えるから。確かにそうなんだけど、あれは、ジョンが僕にボードがいかに自動で動くのかを説明していたんだ。ジョンは大喜びだった。それがいかに自動で動くのかを見せるために、腕を広げた瞬間だったんだ」


●1980年10月9日(ジョン40歳の誕生日)


「ヨーコがあげた誕生日プレゼントをジョンはみんなに見せびらかしていた。ヨーコはよく編み物をしていたけど、ジョンの通っていた学校のものとまったく同じネクタイを編み物で作ったんだ。それからアメリカの国旗のピンをあげた。それはダイアモンドとルビーとサファイアで出来ていた。ジョンはそれをすごく誇らしげに付けていた。それは彼にとってすごく意味があったから。でも彼はそれを数分のうちに落としてしまった。トレイに落ちているのを僕が見つけた。だからヨーコに気付かれないように彼のところ持って行って、『絶対もうなくしちゃダメだよ』と言った」


●『ダブル・ファンタジー』について


「ダブル・ファンタジーというのは、ジョンがバミューダにバケーションに行っている時に見つけたフリージアの一種だった。ひとつの茎に2色の花が咲いた。違う色であるというシンボルをジョンは気に入ったんだ。彼にとって、ダブル・ファンタジーというのは2人の人が一緒に住むこと、人間関係について同じ夢を持つことを象徴していた。フリージアが同じ1本に2色の花を咲かせたように。それが『ダブル・ファンタジー』のコンセプトだった」


●ジョンが亡くなる2日前


2人はヨーコの新曲“Walking on Thin Ice”のレコーディングをしていたので、ジョンには待ち時間があって、ジョンとボブは長く話す時間があった。

「その晩、ジョンは主に未来の計画について多く語っていた。『ダブル・ファンタジー』はすごく売れていたから、ジョンは春から開始する予定の世界ツアーをするのを楽しみにしていた。だけどジョンはとりわけヨーコが良い評価を得ていることを喜んでいた」


「ジョンとはこれからのツアーのこと。日本のどこが好きか、日本に行くのをいかに楽しみにしているのか、パリのどのレストランが一番好きか、日本のどの店が一番好きかなどを語っていた。全体の雰囲気は、人生がいかに素晴らしくて、今すべてがいかに思い通りになってきているのかについてだった。

その日のジョンはすごく地に足が付いていた。意識が明瞭だったし、自信を持っていた。ショーンを育てたことで自分が何を学んだのか、それがいかに彼に喜びをもたらしたのかを語っていた。40歳にして彼は、遅れてやってきた喜びから幸せを知った。毎晩ハイにさえならなければ、子供が何か新しいことを学んだと知ることによって、さらにハイになれると知ったんだ。責任を持った人生を生きること、健康な食事をすること、考えて行動することについて語っていた。そして満足というのは、仕事をするから得るんだと知ったと。ケミカルから得るものではなくて」



「ジョンは亡くなる1週間前も、インタビューをたくさん受けていたが、そこでどれだけ人生を楽しんでいるのかを語っていた。僕が亡くなる前に彼と話していたこととも同じだった。彼は悪い習慣をほとんど取り除き、頭は明瞭で、規律正しく生きていた。

ジョンは頭が良くて、深く物事を考える人だった。5年間かけて、息子を育て、しらふで生きることを学んだんだ。ここまで来るのにジョンは40年かかった。僕はいつも思うんだ。あと40年あったら彼はどんな人になっただろうと」


この日のジョンは、買ったばかりのヨージ・ヤマモトのジャケットの写真を撮りに来て欲しいとボブに頼む。彼は行って、写真を撮って、その後リムジンに乗ったジョンが『またね』と言って、別れる。

ジョンが亡くなった日もボブは電話で話している。後で写真を持ってスタジオに行くと告げる。ジョンが最近のバンドがどんなライブをしているのか知りたいと言ったので、ボブは、クラッシュ、セックス・ピストルズ、スリッツのパフォーマンスが収録されたVHSをジョンに貸していた。ジョンはそのテープを観て好きだったと言い、そのテープと『ダブル・ファンタジー』をダコタ・ハウスのフロント・デスクに預けておくと言っていた。

しかしその後ジョンが亡くなったと聞いて、ボブは急いでダコタに向かう。すでに人だかりができていたが、自分はフロント・デスクからピックアップするものがあると言うと入れてくれたそうだ。フロント・デスクに僕宛に何か置いてないか、と訊いたら、そのテープと『ダブル・ファンタジー』がちゃんと置いてあった。


●ショーン


「ジョンが亡くなった翌日にヨーコがショーンに父が亡くなったと告げると、ショーンは、『だけどお父さんはどこを見てもいるよ』と言った」


●1981年ヨーコがベッドでショーンを寝ているところが見つめている写真

(これは現在日本で開催中の『ダブル・ファンタジー』展に展示されているはず)

「5月9日にヨーコが、アルバム(『Season of Glass』)が完成したと言った。スタジオに電話したらダコタに戻るところだと言ったので、ダコタに行くと言った。そこでヨーコと音楽ディレクターが完成したアルバムを初めて聴いていた。レコードを聴き終えたところで、ショーンが起きて、ベッドにいたヨーコのところに来た。ショーンがヨーコに寄り添ったので、2人が一緒のところを写真に撮るのは僕にとってはすごく自然なことだった。それは母の日の夜明けだった」



一番上の写真は、1975年3月28日ニューヨークで撮影されたもの。ジョンが優しい表情を見せているので、ボブが一番気に入っている写真だということ。今回特別に貸してくれた。

コレポンの方もぜひ合わせて読んでください。

ボブ・グルーエンの写真が15点も展示されている『ダブル・ファンタジー』展もぜひ。現在開催中です。
中村明美の「ニューヨーク通信」の最新記事
公式SNSアカウントをフォローする

人気記事

最新ブログ

フォローする