のちに「モリッシー」と呼ばれるひねくれ文学少年の青春グラフティ、『イングランド・イズ・マイン』の鑑賞ポイントをおさらい

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『イングランド・イズ・マイン』(5月31日公開)は「モリッシー,はじまりの物語」と副題されているように、ザ・スミス結成の前日譚となる物語だ。つまり同作はザ・スミスの映画ではないし、劇中で彼らの曲が流れることももちろんない。さらに言えば、『イングランド・イズ・マイン』は私たちが「モリッシー」として知る男の映画でもない。本作はあくまでもスティーヴン・パトリック・モリッシーという、マンチェスターに暮らす人生に悲観したひねくれ者の文学少年の物語なのだ。

主演のジャック・ロウデン(『ダンケルク』他)が、自身の芝居や歌をモリッシーに寄せることをほとんど意識していないように見えるのも面白い。例えば『ボヘミアン・ラプソディ』におけるラミ・マレックのフレディ憑依芝居と比較すると、ロウデンがもっとニュートラルに演じているのは明らか。でも、それも当たり前なのかもしれない。繰り返しになるけれど、彼が演じているのは世界中ののけ者たちの王、モリッシーではなく、世界中ののけ者たちの中の一人に過ぎなかったスティーヴンなのだから。

この映画の中でスティーヴンは何者にもなれない不安と厭世に苛まれながら、気取った口調でボソボソと喋り、小難しい単語を並べた辛辣なライブ評を書きまくり、ライブハウスの片隅でビールを啜っている青年だ。「当方ボーカル、ボーカル以外全パート募集」という、頭でっかちなバンド志望少年あるあるな告知をレコード屋に貼り、そのくせ受け身で自分からは動こうとせず、暇さえあれば一人ぼっちで世界を糾弾し、自分を嘆く詩をノートに書き散らし、親の仇のようにタイプライターを打ちまくっている。ノートをスマホに、タイプライターをノート・パソコンに、そして「NME」への投稿をTwitterでの呟きにでも置き換えれば、スティーヴンのようなティーンは今も世界中にごまんといるだろう。カリスマティックでコントラバーシャルな唯一無二のアーティストであるモリッシーの前史を、そういう普通の少年のそれとして描いているのが本作のユニークな点でもある。

児島由紀子さんが以前こちらのブログ(https://rockinon.com/blog/kojima/85793)でも書かれていたように、モリッシーは1976年にマンチェスターで行われたセックス・ピストルズのライブの数少ない目撃者の一人だ。本作にはそのシーンも出てくるのだが、肝心のピストルズのライブ・パフォーマンスは何ともぼんやりとした締まりのない映像で、ライブハウスを包む熱狂とスティーヴンの間に横たわる深い溝と、スティーヴンの孤独が浮かび上がってくる演出になっている。そんなピストルズのシーンを筆頭に、本作には当時のマンチェスターの音楽シーンを物語るいくつものヒントが散りばめられているのだが、それでも本作はスタンダードな音楽映画と呼ぶにはあまりにもいびつであり、同時にいびつな青春映画として真っ当なのだ。

とは言え、この『イングランド・イズ・マイン』に散りばめられたいくつもの記号――ビリー・ダフィーらと組んだ「The Nosebleeds」や、オスカー・ワイルドのポスターが貼られた部屋、ニューヨーク・ドールズの微妙なサイズ感のTシャツを一張羅のように着るスティーヴンの佇まい、彼の孤独を撫ぜるように流れるマリアンヌ・フェイスフルスパークス……etc,――は、これまで様々な文献を通して想像することしかできなかったモリッシーの前史に温かな息を吹き込むものでもある。19歳のモリッシーと当時14歳のジョニー・マーパティ・スミスのライブで初めて出会うシーンにはどうしたって胸がぎゅっとなるし、スティーヴン・パトリック・モリッシーが「モリッシー」となったことを暗示して終わるラストの余韻もいい。

ちなみに終演後はすぐにザ・スミスを、シアターの外の喧騒をシャットアウトして“Hand in Glove”を聴きたくなること必至なので、ヘッドホンやイヤホンの携帯をお忘れなく。(粉川しの)

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