ラムシュタインらしさが凝縮された、わかりやすくも濃密な無題のアルバム。この新たな原点から、彼らはどこに向かうのか?
2019.05.16 16:40
10年ぶりの帰還。そこで、かくも長き不在を埋めるために何をすべきか。ラムシュタインが出した答えは、ある種のリセットだったのではないだろうか。
満を持して、どころではない時間を経ながら登場したこの待望の新作には、まず、タイトルというものが冠されていない。バンド名をそのまま掲げたセルフ・タイトル作ではなく、あくまで無題なのだ。それはどこか、この作品の持つ意味は各々の聴き手が決めるべきものだ、という呼びかけのようにも感じられる。シンプルきわまりないアート・ワークについても同様のことが言えるように思われる。
そして、そこに機能的に配置された収録曲たちもまた、例によってシンプルかつ暗示的な言葉で命名されているのだが、何よりもまずアルバムの幕開けを飾る楽曲が、このバンドの出自について改めて根源的なところから説明するかのように“ドイチュラント”などと名付けられていることに意味深長さを感じずにはいられない。旧東ドイツ出身のメンバーたちによる、ドイツ語で歌うバンド。ラムシュタインはどんなバンドか、と尋ねられた時に誰もが口にするであろう事実。それがこの1曲目で突きつけられるのだ。
その瞬間、この10年間を焦がれるような想いで過ごしてきた人たちはラムシュタインの揺るぎなさ、良い意味での相変わらずさを実感させられ、このバンドと無縁の年月だけを過ごしてきた人たちには、それが最初の関所となるのではないか。というか逆に、予備知識のない人たちが下調べをすることのないまま今作に触れたとしても、1曲目でいきなり基本情報を植え付けられることになるわけだ。なんて巧妙なのだろう。しかもそこで素直に2曲目へと進んでいけばクイーンの“レディオ・ガ・ガ”とはまるで異なったベクトルを持つラジオ賛歌、“ラディオ”が不気味な人懐こさをもって深みへと引きずり込んでいく。逆にそこで“ドイチュラント”の重厚な長編ビデオ・クリップへと寄り道をすれば、それはそれでやはり底無し沼が始まることになる。
そうした冒頭の2曲に限ったことではなく、聴き進めていきながら感じさせられるのは、この作品が実にわかりやすくラムシュタインらしさというものを伝えてくれる1枚だ、ということに他ならない。実はこの作品についてはプレスに向けても試聴音源が配布されることが一切なく、発売前に聴くためには試聴会に出席する以外に手段がなかった。しかも、試聴した事実を公言することが赦される期日までが厳しく定められているというありさまだった。そうした状況自体に、日本ではまだ深く浸透しているとは言い難いこのバンドの、世界的な意味でのステイタスの高さを改めて思い知らされる。そして、閉ざされた室内での、携帯電話持ち込み不可という徹底した管理体制下での試聴会の際に、筆者が各曲の印象を書き留めたメモには、ミステリアス、スプーキー、うねり、よどみ、ゴシック、シンプルな怖さ、挑発的、煽情的、といった、まさしくこれまでラムシュタインの音楽を形容する際に用いてきた言葉ばかりが並んでいた。
この、ラムシュタイン以外の何物でもない最新作は、デビュー作のようでもあり、より広い世界に向けての第1作のようにも、ベスト・アルバムのようにも聴こえる。要するにここが、彼らにとっての新たな原点ということなのだろう。ならば、ここを起点としながら彼らはどこに進んでいこうとしているのか? そう考えた時、反射的に浮かんだのは、ここが着地点かもしれない、という可能性だった。もちろんこのバンドにはまだまだ続いてもらわねば困るが、ここで仮に物語が完結したとしても納得できてしまうところがある。つまり、このアルバムはラムシュタインにとっての目的地だったのかもしれない、ということなのである。(増田勇一)