ポップ・ミュージックに花束を

ラナ・デル・レイ『ボーン・トゥ・ダイ』
ラナ・デル・レイ ボーン・トゥ・ダイ
2012年の日本で暮らす我々は様々なものが「終わり」を迎えようとしているのを感じている。震災もその後の世界情勢も、なにか大きなものが終わりつつあること、ただそれだけを指し示している。次の事象はなかなか見えてこない。9・11後のアメリカもこういうことだったのだろうか、と思う。そして、9・11から10年が経とうとしていた昨年の夏、“ビデオ・ゲームス”と題された1本のヴィデオと共に、こうしたアーティストが現れた事実に、これまでもポップ・ミュージックの歴史を刻んできた巨大な運命の存在を感じずにはいられない。ラナ・デル・レイ、待望のデビュー作である。「死は芸術だわ。私達はポップ・ミュージックを使い果たしてしまった。そういった健全な夢は死んだのよ」。プレス・リリースに綴られたこの言葉が、彼女とは何なのかをすべて物語っている。彼女のアルバムが描くのは、アメリカの亡霊であり、ポップカルチャーの亡霊であり、ひいては20世紀の消費社会で生み出された若者たちの亡霊である。現代的なリズム・トラックの上に、50年代のアメリカ映画のサウンドトラックが風化して溶け出したようなサウンドテクスチャーが載り、本名をリジー・グラントと言う25歳のアーティストは、「死」を告発する危うさの中でギリギリのポップネスを追求する。あまりにも出来すぎゆえ既に懐疑論も飛び出しているが、時代の死を今ここまで正面から歌うアーティストはいない。死と向き合うことでしか前に進むことはできない。その決意はあまりに鮮やかだ。(古川琢也)棘の冠を被りこなす歌姫『サタデー・ナイト・ライヴ』でのライヴへの酷評にしても、このような一連のバッシングはもう、彼女にまとわりつく呪縛のようなものだ。そしてその呪縛が彼女にもたらすさまざまな運命を潜在的に感じ取るとき、私達はラナ・デル・レイに完全にとりつかれてしまう、そういうことなのだと思う。その意味でまったく新しいポップ・スターであり、2012年という時代に生み落とされるべくして生み落とされた歌い手だ。
 
本作は、“ビデオ・ゲームス”のヴィデオとともに当初ブロガー勢が書きたてたように、破格のDIYプリンセスの誕生を記録するものではない。非の打ち所のないサウンド・プロダクション。ハイとロウを行き来するヴォーカリゼイションを存分に活かしたソングライティング。すべてが完璧なパッケージのなかで私達が発見するのは、正しく壊れきったイメージである。ときにポップ・スターダムを裏付ける挫折/努力とはまた違う「闇」。彼女自身が言うようにプロム・クイーンでもなかった一人の女子が、たったひとつの「歌」という武器を手に入れ、かつ、思春期を捨て去ったときの無敵感。それをここまでの凄みとスケールで、しかもアイロニーを込めて醸しだすシンガーはいなかった。もはや「ポップ・アイコンとして勝負する気があるのか」という問いすらも寄せ付けないその姿勢は、すべてがちぐはぐなアメリカを象徴するアートワークにも貫かれている。あとはこの寡黙なポップネスがどう広がっていくかだが、それすらも運命として味方に付けていくだろう。(羽鳥麻美)
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