11月16日より全国劇場にて、1週間限定上映されている横山健のドキュメンタリー・フィルム『横山健 -疾風勁草編-』。2009年11月から2013年2月にかけて撮影された本作品は、その間の激動の日々をリアルタイムで追い続けるロック・ドキュメンタリーであるのと同時に、彼自身がその生い立ち、Hi-STANDARD、ソロ、PIZZA OF DEATH、そして東日本大震災について赤裸々に語る、「人間・横山健」のドキュメンタリーでもある。

映画は、2011年に横浜で開催された『AIR JAM 2011』のシーンから始まる。その終演直後、彼は「Ken Bandを必死こいてやっていたこの7~8年は、何だったんだろう。全部台なしにしちゃった気持ち」という複雑な胸中を告白している。Ken Yokoyamaとして残してきたソロの足跡、Hi-STANDARD復活の是非、そして被災地へのストレートな思い。様々な事象を前に、その中心で人間・横山健は翻弄され、苦悩し、決断をする。彼は何を疑い、何を信じ、何に怒り、そして何を背負ってきたのか?――すべてを明らかにしたリアルな物語がこれだ。

絶賛公開中の現在、今作の背景やそこに映された真実について、本人自らにじっくりと語ってもらった。

インタヴュー

──すごくいいドキュメンタリーだなと思ったんですが……。

「きた!(笑)」

──でも変なドキュメンタリーだよね。

「(笑)変すかね?」

──というのは、撮り始めた当初、こんなドキュメンタリーになるとは思ってもいなかったでしょ?

「そうなんですよ。最初は4枚目のアルバムの『Four』のドキュメントにしようと思ったんですね。で、レコーディングから入ってもらって、ツアーにもついてきてもらって。で、最終的に幕張と神戸でやった『DEAD AT BAYAREA』っていうライヴを終着点にしようっていう、結構ありきたりなドキュメンタリーだったんです。それで編集も一度終わったんですよ。2009年から2011年にかけての、Ken Yokoyamaっていうバンドをやってる横山健のただの音楽紀行みたいな感じだったんです。そこに少し生い立ちを足して、わかりやすく見てもらおうっていうのが最初の狙いで。そこで編集も終わって、『じゃあ、いつ頃やろうかねえ』なんて言っていたところに震災が起こって。もう誰もが、無言でもうちょっと撮ったほうがいいって思いましたね。関わっている監督も、PIZZA OF DEATHの人間も僕も」

──まず映画の冒頭は、2011年の『AIR JAM』が終わったシーンから始まっているよね。しかもそこで横山健がブツクサ言っているっていう(笑)。

「はい、愚痴ってましたからねえ(笑)」

──いきなりその混乱している姿から始まり、生い立ちから振り返る横山健のひとり語りが始まり、そこから年代を追いながら。

「はい」

──で、途中から震災が入ってきて、東北の『AIR JAM』へ向かっていく。構成的には、すごく変なんだけど、作品として見ると、ものすごく立体的な物語になっているよね。

「そうですねえ。でも実際、自分で言うと野暮ですけど、それぐらいドラマチックな日々だったんですよ、あの時期って。震災があって、いろいろ思うところがあって、変えなきゃいけないところは変えて。でも人前では一生懸命、『俺はこう変わった!』って言うんだけど、裏では実はすごくブツクサ言ってる(笑)。それが全部撮られてますもんね。なんか、100喋ってもお腹いっぱいなところを120ぐらいで喋った気がするんですよ。ドキュメントの監督ってあんまし対象と仲良くならないっていう人と、思いっ切し踏み込んで撮る人といるじゃないですか。監督のMINORxUは後者なんですよ。空気になりたい、いつ回してんだかわかんないようにしたいっていうような監督で。で、ツアーでも毎日いたもんだから、いて当たり前の人間になったんですね。で、僕も夜な夜なコインランドリーで、自分の人生哲学みたいなものをいっちょまえにMINORxUに向かって語るんですよ。撮られてもいないのにですよ?(笑)。だから120話せちゃったっていうか、彼の手法にまんまと乗っちゃった感じですね」

──最初『DEAD AT BAYAREA』で終わろうと思って作っていた時は、どういうオチや結論を考えていたんですか?

「どうだったかなあ?……ただやってる感を出したかっただけかもしれないですね。だって今になって考えてみると、『DEAD AT BAYAREA』がオチじゃ弱いんですよ。そこに言葉で補正とか肉づけをしたいんだったら、俺これだけの気持ち持ってやってますからっていうことしかないですよね」

──ということはその時期っていうのはKen BandのKen Yokoyamaとして、自分の道はこれだっていうのがある程度自分の中で見えた時期だったのかな。

「見えたというよりも、これで行くしかねえだろうって思ってた時期だったんです。アルバムもいろんなことに対して怒ったり、問題提起したアルバムだったので。『俺の行く道はこれだ!』っていうのを自分にも言い聞かせたかった時期なのかもしれないですね。だから一生懸命頑張ってた時期だったんですよ。そこ、自分でも微妙だなあと思うんですけど。作品全体で見た時に、最初のほうのインタヴューってやたらテンション高いんですよね。見直して恥ずかしくなっちゃったりするんですけど。たまたま監督が使いたい言葉が揃ってたから、まあ、良かったなあっていうぐらいで」

──でもその頃は、セールスが増えて、Ken Yokoyamaとしても軌道に乗っていた時期だったけど、この音楽業界の停滞っぷりの壁にぶち当たり、「さあ、どうしよう?」みたいな部分もあっただろうし。

「うんうん」

──そして自分は音楽性を広げていき、ものわかりも良くなっていく中で、『俺は一体どこへ行くんだろう?』って、もう1回足下を見直した時期でもあったんじゃない?

「そうですね」

──そこを強調したい時期だったのかもしれない。

「きっとそうだと思います。もうひとつは、生い立ちから語るってことは、ほんとに予備知識のない人に、こういう育ちをしてきましたよっていうのを平たく話す。そういう機会もなかなかないんで、うん。あんましそこから話す機会ってもはやなくなってきてるので、結構楽しくテンション高く話しましたけどね」

──で、その後、震災が起きて、『AIR JAM』、そしてハイスタ再結成っていう、当初は予期してなかったドキュメントな事件が起きるんだけれども、そこも引き続きカメラが追ってますよね。

「そうですね、はい」

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