第5回では、Hi-STANDARDを特集する。
■伝説の始まりはバンドブームが去った氷河期から
まず、Hi-STANDARDが登場した91年は、ライブハウスシーンが混迷を極めた時期だった。80年代中盤から始まったインディーズムーヴメントは80年代後半にバンドブームへと発展し、当時のメジャーシーンでは様々なバンドが活躍していたが、一方ライブハウスでは観客動員の暴落が起きていたのだ。それはバンドブーム終焉の合図だった。Hi-STANDARDのファーストライブは、今はなき高円寺20000V、対バンはbloodthirsty butchers、BEYONDS、SCAMP、GOD'S GUTS。ちなみにこの時期100人動員できるインディーズバンドは、パンク系ではBEYONDSとNUKEY PIKESの2バンドだけだった。そしてこの日トップで登場したHi-STANDARDの演奏を観れたのは、対バンの面々と、開演に合わせて来てくれたわずか10人程度の観客だけだ。
この後、彼らは2度のボーカル交代を経て3人編成となり、ベースの難波章浩がボーカルを兼任担当。結成期は現在のサウンドに既に近かったが、2人目のボーカル時に一瞬ダーク&ヘビー&メタリック色が濃くなるという大きな変化を見せる。が、3人編成になった後、徐々にこれらすべての要素が統合され、現在の怒りと勇気、反抗と肯定、絶望と希望等が絶妙に混ざり合った、彼ら独自のパンクロックへ昇華されていったのだと思う。
とはいえ、2年ほどは10~20人程度の動員という困難な活動状況が続いていたが、若い彼らは自分たちを信じ、ただひたむきにライブを続けた。Hi-STANDARDはパンクの反骨心、負けん気に溢れたバンドだった。
■ライブハウスの復興をもたらしたHi-STANDARDの躍進
大きな転機となったのは94年1stミニアルバム『LAST OF SUNNY DAY』の旧・新宿LOFTでのレコ発ライブだ。同期の仲間であるCOCOBATやCOKEHEAD HIPSTERSらと共に盛り上げたこの日のライブは、今思えば後の「AIR JAM」の原型のようなムードがあった。箱からあふれ出す大勢の観客、そしてその大勢の観客は破顔しながらエネルギーを爆発させていた。ライブハウスがこんな状態になるのを観たのは、本当に久しぶりのことだった。ここを起点に、ライブハウスに再び観客が増え始めたのである。ラウドロック時代の幕開けだった。また、折からのグリーンデイの世界的なヒットなども後押しとなり、一般層も巻き込んで本格的なパンクの復興が始まった。■ロックでは前例のない売れ方を見せる規格外の存在に
純然たる口コミのみでじわじわと動員を伸ばしてきた彼らは、翌95年にトイズファクトリーから1stフルアルバム『GROWING UP』をリリース。このアルバムが、ロックでは完全に前例のない売れ方を見せる。1日100枚が毎日コツコツ売れ続け、しかもそれが丸2年近くも続いたのだ。初動が全てを決める短期決戦型が主流の日本のロックアルバムが、なぜそんな真逆の売れ方をしたのか。彼らが当時やっていたことは、日本全国の小さなライブハウスをひたすら回っていただけ。つまりこれもまた口コミだったのだ。それはどこまでもリアルで美しい売れ方だった。さらに、パンクの「ファスト・ラウド・ショート」に加えて、炸裂する黄金のメロディーというHi-STANDARDのサウンドから、「メロディック・ハードコア」という言葉が発生し、Hi-STANDARDはその元祖となり、そして後続バンドが次々と登場し始めた。これだけでも凄い事だが、面白いのは後続バンドのほとんどが、Hi-STANDARDと等しく歌詞を英語で歌ったことだ。つまり「セールスを考えるなら日本語で歌え!」という考え方が常識だった時代に、爆音&英語というスタイルが当然のように浸透し始めたわけなのだ。加えて、彼らは地上波のテレビ番組には決して出ようとしなかった。見たいならライブに来い! 全国行くし、チケットだってめっちゃ安いんだぜ!という、それは彼らのメッセージだったと思う。主流に反旗を翻しながら、その主流を凌駕する勢いを見せつけるHi-STANDARDに、多くの者が胸がすくような痛快さと爽快さを覚えたものだ。ちなみにこの頃、ライブチケットの価格は来日勢なども含めて軒並み手ごろな値段へと下がっていったのだが、それはHi-STANDARDを始めとした国内パンク勢の努力によるところが大きかった。
■Hi-STANDARDの躍進は、さらに海外へと続く!
また、Hi-STANDARDは日本だけに納まるバンドではなかった。96年、NOFXのファット・マイクが主催するファット・レック・コーズから『GROWING UP』が全世界リリースされる運びとなり、それを機に彼らは初の全米ツアーを敢行。そこから米国での支持も獲得し、米国最大のパンクロックフェス「WARPED TOUR」へ参戦した後、さらにワールドツアーへと羽ばたいたのだ。日本と同じ、地道かつひたむきな活動を行うことで、彼らは世界のパンクファンからも「日本にハイスタあり!」と、大きな人気を獲得していく。そして世界各地のパンクバンドと友人同士となって、交流と親交を深めていった。
■「AIR JAM」というフェスの特別性
国内外を問わず、様々なイベントや大規模フェスに登場するようになった彼らが、自分たちの手で、自分たちに最もフィットする、自分たちのフェスをやろうと思い立ったのは自然な流れだった。パンク&アンダーグラウンドシーン主体の大規模フェス「AIR JAM」だ。第1回は97年、ライブハウスで対バンしてきた仲間たちと共に約1万5千人の観客を集め、翌98年の2回目は豊洲の広大な空き地に3万人もの観客を動員した。にもかかわらず、出演バンドはステージが終わったら普通に客側に混じったり、Tシャツの売り子になっていたりと、ライブハウスと全く変わらない態度を貫き、アーティストと観客の関係性を限りなくイコールにすると共に、フェスの常識を完全に覆した。「AIR JAM」は文字通り、特別なフェスだったのだ。しかし、99年3rdフルアルバム『MAKING THE ROAD』でPIZZA OF DEATHというレーベル名をそのまま会社名に用いて独立し、第3回となる「AIR JAM 2000」で千葉マリンスタジアムを超満員としたその活動絶頂期に、彼らは突如として活動を休止した。
■雨降って地固まり、人生万事塞翁が馬
この時期のことは、昨年11月に公開された映画『SOUNDS LIKE SHIT : the story of Hi-STANDARD』に余すところなく全部描かれている(あれ以上のものはないと断言できるし、あれ以外は何を書いても蛇足になる気がするので、この記事も極力シンプルに書いている)。非常にデリケートな話題になるし、変な先入観を持ってほしくないので、彼らが全てを語っているそれを見て欲しいと強く思う。とにかく、彼らは2011年3月11日という忘れられぬ日を経て、再び結集した。今、自分たちが人のため、仲間のためにできることを精一杯やろうとした結果、11年ぶりの開催となる「AIR JAM 2011」、そして11年ぶりとなるHi-STANDARDのライブが決定したのだ。ライブまでの時間は非常に僅かだった。練習に練習を重ね、その日にできることを彼らは全部やった。ただその演奏に関しては、「全然ダメだった」と後に自分らで自分らに打ちのめされていたことを語ってくれたが、そもそも11年ものブランクを僅かの時間で取り戻せるわけがないし、見る側は彼ら3人が同じステージに立ってくれるだけで泣きそうになるぐらい嬉しかったのだ。
そしてこれを機に、「AIR JAM」は2012、2016、2018が開催され、その間Hi-STANDARDはなんと16年ぶりのリリースとなるシングル『ANOTHER STARTING LINE』を事前告知一切無しでいきなり店頭発売。2017年は日本中の街中に突如『THE GIFT』の看板が溢れ、遂に18年ぶりとなるフルアルバムのリリースがゲリラ的に告知され、そのツアーファイナルとなった17年末のさいたまスーパーアリーナ公演では、MCで「二度と畳まないよ!」と明言もしてくれた。そして昨年、2018年は衝撃のドキュメンタリー映画『SOUNDS LIKE SHIT : the story of Hi-STANDARD』の告知を、フリーマガジン「Hi-STA ZINE」を大量に張り付けた渋谷駅通路の巨大広告を経て、11月に全国公開。同年末には『THE GIFT』のエクストラツアーも全国7ヶ所で行われた。
文字通り、完全復活。
ただ今年は、まだ動きがない。
でも、心配はいらないと思う。再び始動してからというもの、彼らのやり方は一貫して、いきなりもの凄いニュースを意外な形で投下するというやり方が取られているからだ。
常に常識を覆す、創造性に富んだ規格外の男たち、Hi-STANDARD。彼らの音楽を、ライブを、笑顔を、これからもずっと楽しみに待ち続けている自分がいる。(中込智子)