「ようこそストレンジランドへ! あいにくの天気の中、集まってくれてありがとうございます。どこの会場でも訊いてるけど、みんな『真昼のストレンジランド』は聴いてくれましたか?」と、おそらくアルバムを舐めるように堪能して雨の中集まったであろうファンにわざわざ問いかける田中和将のプレイもといMCに、新木場スタジオコースト満場のフロアから沸き上がる拍手喝采! それを受けてさらに「おお、どうやら新木場あたりでは売れてるらしくて、安心しました」と悪戯っぽく続ける田中。「聴いてもらえればわかると思うけど、もはや盛り上がるとか盛り上がらんとかではない感じなので(笑)、映像を見るような、1人1人の想いがふくらむようなライブにしたいと思います」という言葉通り、GRAPEVINEのしなやかで強靭なブルース・ロックと、高純度のイノセンスをそのままロックに置き換えたような音風景とが、アンコール含め2時間半にわたって新木場スタジオコーストに渦を巻く、ミステリアスな音楽体験だった。
本来なら、最新アルバム『真昼のストレンジランド』を引っ提げての全国ツアー=『GRAPEVINE tour 2011 STRANGELAND』のファイナルとなるはずだったこの日の公演。震災の影響で順延になった札幌/盛岡/仙台の振替3公演をこの後に残しているため、ここでのセットリスト全掲載は避けるが、冷徹なギター・ロックの音像とともに《ここは異郷か ここは現実か ただの余興か 真昼の光の中へと出てゆこう 俺は塵芥》という異世界への扉をこじ開ける“Silverado”、アコギをフィーチャーした豊潤なブルース・ナンバー“ミランダ(miranda warning)”など『真昼の~』全12曲を“GRAVEYARD”などこれまでの楽曲と絡み合わせて魔術的なまでに濃密なロックの風景を描き出し、GRAPEVINEの「今」を最大限に解き放つようなステージだった。
たとえば、長調と短調/メジャー・コードとマイナー・コードの隙間からとめどなく音の蔦をほとばしらせ、聴く者の心へと張り巡らせていくようなGRAPEVINEのダーク・ブルース・サイドの結晶たる“411”での田中&西川の壮絶なギター・ソロの応酬。たとえば“おそれ”のような、世界の淀みを音の力で濾過&漂白して限りなく透明な音風景を現出させる清冽なギター・ロック・サイド……そのどちらもが、田中の圧倒的なロック・ミュージシャンとしての肉体性をもって、とんでもなくダイナミックで図太い表現として、スタジオコーストのフロア狭しと展開されていく。西川弘剛のギターはさらにエッジィかつスリリングにそのサイケデリック感を煽り立てていくし、亀井亨のドラミングがそこに絶妙の安定感とうねりを与えていく。キャッチーな共有感・熱狂感の力も、絶望マニア的なダークネスの力も借りることなく、彼らはひたすら己の音を鍛え上げ磨き上げることで、その表現の精度と訴求力を上げ続けているのだ。ベーシスト=金戸覚/キーボード&スライドギター=高野勲とのアンサンブルももはや鉄壁の完成度を誇ってはいるのだが、そこには「円熟」といった呑気な空気感は皆無だ。どれだけBPMが緩やかになりビートがレイドバックしても、そこには終始音がするほど張りつめた緊迫感と陶酔感が伴っている。
多くのアーティストが震災後のライブのMCで触れている、「この非常時における音楽の役割について」といったことは、田中はあえて言及はしなかった。ただ、アンコールの前に「今回のツアーもいろんなことがありました。いつもより短めでしたけど……」と自らのツアーの順延(と高崎公演の中止)についてだけ語った。時に天の邪鬼な顔も見せながら、しかしどこまでも粋で潔く、ただ鮮やかに生の象徴たるロックの核心をえぐり出して、僕らの前に提示すること。それがGRAPEVINEの音楽の美学であり、フロントマンたる田中の美学である……ということが、今この状況の中で目の当たりにすることでよりくっきりと浮き彫りになったアクトだった。前述のMCに対して高らかに沸き上がる賞賛と激励の拍手にやや照れ笑いを浮かべながら「新木場ー!」と叫び上げ、「……とか1回も言わんかったけど。大丈夫? そういうライブで(笑)」。さすが田中、と言うしかない。
アンコールではなんと2ndアルバム『Lifetime』からのシングル曲だったあの曲をはじめロックンロール/ブルース全開放的なエネルギーを見せつけて、2時間半のアクトは終了。ツアーのグランド・フィナーレは7月10日:盛岡club change WAVE公演。ポジティブもネガティブも飛び越えた生命力をびりびりと発信するGRAPEVINEの今の音は、不言実行的に強烈なパワーを聴く者すべてに振り撒いていく迫力と魔力に満ちている、ということを十二分に確認できた、珠玉のロック・アクトだった。(高橋智樹)