『LIVE TOUR 2011 DISCOVERY』の追加公演、東京国際フォーラム・ホールA・2デイズの2日目。このあと同じく追加公演で、24日の青森と26日の福島県いわき市が残っているのですが、「ここまでくらいは書いていいです」と、レーベルに確認した範囲で書きます。それでもこれ、結構、曲目がわかってしまうので、これから観る方は読まないほうがよいと思います。身近に青森もしくはいわきに行く人がいる、という方も、うかつにツイートしたりしないでいただければと。
ではいきます。
まず、全体の概要。1曲目は、『大発見』のオープニング・チューン“天国へようこそ”でスタート。続いて“空が鳴っている”“風に肖って行け”と、ここまで『大発見』の曲連発パート。で、4曲目で“カーネーション”をやって、いったんステージのムードを変える。そしてまた『大発見』から“海底に巣食う男”、次はソロの『三文ゴシップ』から“カリソメ乙女”(それまでステージ右方向を向いて歌っていた椎名林檎、この曲で初めて正面を向き、初めてハンドマイクも使う)、で、ここからは『大発見』の“禁じられた遊び”“恐るべき大人達”“かつては男と女”、児玉裕一監督が作詞した、DVD『CS Channel』に収録の“ハンサム過ぎて”と、新しい曲たちが続く。次のブロックは、『大人』から“秘密”、『娯楽』から“某都民”、『大発見』から“ドーパミント!”と“女の子は誰でも”、『大人』から“歌舞伎”……と新旧取り混ぜながら進んでいきました。
特に圧巻だったのは後半、16曲目から20曲目、切れ目なしで“ミラーボール”“能動的3分間”“OSCA”“絶対的相対値”“電波通信”の5連発。並び方、つながり方、それに伴う照明や映像やセットなどなどの動き方、そして5人の出している音と歌。もう、見事としか言いようなし。1曲終わって次の曲が始まる瞬間のたびに、ほんと、「うわあっ」て声が出ました。鳥肌も立ちました。
って、ほとんど曲目書いちゃってるので、このへんでやめます。あ、でも、アンコールで新曲、やりました! ……いや、そういえば、この曲の前にドラムの刄田綴色がMCしたんだけど、「作りたての未発表曲です!」という紹介のしかただった。「新曲」じゃなくて「未発表曲」と言ったのは、何か理由があるんでしょうか。ないかもしれませんが。来月出る5曲入りニュー・アルバム『color bars』の収録曲なんでしょうか。違うかもしれませんが。ただ、ジャズのビッグバンド風なメロディの曲だったので、椎名林檎の作曲かな、これ、とは思いました。
で。前回のツアーのライヴ・レポートでも書きましたが(これ http://ro69.jp/live/detail/34480 )その、前回のツアーあたりから、いや、もっと前からかもしれないが、東京事変のライヴって、ほんっとにすごい。明らかに、ほかではこんなもん、観れない。少なくとも、僕は観たことない。
ファンはみんなうなずいてくれると思うが、でも観たことない方は知らないだろうから書きますが、東京事変のライヴって、基本的に、我々が普段思っている「ロック・バンドのライヴってこういうもの」という概念とは、まったく違うところに位置している。これも前に書いたことのくり返しになってしまうが、たとえば、その曲をやっている時に、各メンバーがどのような衣裳を着て、ステージのどの位置に立って、どっちの方向を向いて、どのような体勢で演奏しているか(もしくはしていないか)。というすべてに、意味がある。必然がある。
その時、照明はどんな感じか。何色で、どっちの方向を何秒くらい照らしているか。セットはどういうふうな形に変わったか。スクリーンやLEDに現れる映像や文字などは、その瞬間、いかに動いたか。もっと言うと、ローディー等のステージ周りのスタッフはまだわかるが、客席で働くスタッフまで衣裳が統一されている(白衣です)のはなぜか。この曲の次は何であの曲で、その2曲がこういうふうにつながったのはどうしてなのか、とか。そういうのに、ほんとにもう、全部理由があるのです。いや、「あれはこれこれこういう理由なんですよ」っていうふうに言葉で説明はできませんが、観ているともう「ああっそういうことか!」とか「おおおなるほどお!」みたいに、もう、いちいちわかる。腑に落ちる。で、落ちたあとに、感動が押し寄せてくる……いや、「感動」だとジャストじゃないな。「楽しさ」とか「興奮」の方が近いかも。
というものなので、東京事変のライヴは、「演劇的」とか「映画的」と形容されることが多い。というか、僕もそう書いてきたけど、ただし。メンバーそれぞれは、基本的には、さしてアクションもなく淡々と演奏しているだけだし、ヴォーカルの椎名林檎も、曲ごとに身体や顔の向きを変えたり、立ち位置が変わったり、トラメガ持ったりタンバリン持ったりギター弾いたりはするけど、たとえばほかの女性シンガーと比べると、その運動量ははるかに少ない。走り回ったり、踊り回ったり、しゃべりまくったり、泣いたり笑ったり、ダンサーが何十人も出てきたりするようなライヴを指して「演劇的」とか「映画的」というならわかるけど、全然そういうものではない。じゃあなんだ。無理やり言うなら「静かな演劇」ってことになるのか。平田オリザか。いや、違う。
というわけで、なんで自分は東京事変のライヴを観て「演劇的」とか「映画的」と感じるのか、考えました。
東京事変の中心は、椎名林檎ですよね。それこそメンバーの名前から始まって、作品名、楽曲名と並べ方、アルバムのコンセプト、ビジュアル、衣裳、などなど、もう徹底的にコンセプチュアルなバンドが東京事変であって、そのコンセプトを考えているのは彼女であることは間違いないと思うのですが、ただ、ライヴを観ていていつも不思議に感じるのが、その「椎名林檎という個が提示する世界!」みたいな感じが、しないのだ。もっと身もフタもなく言うと、「あたしの世界を見て! 知って! 共有して! 愛して!」みたいな空気が、ない。むしろ、ステージ上の椎名林檎自身も、その全体の世界観を描くための部品のひとつにしかすぎないように見える。そういうものとして、ほかのメンバーと同じように、もっと言うと照明とか映像とかセットとかと同じように存在し、動き、歌っているように映る。
たとえば、松尾スズキは大人計画の主宰だし、多くの作品の作・演出を手がけているが、自分が演出する舞台の主演は、自分ではやらない。人の舞台に呼ばれる時は主演もやるのに、自分の芝居の時は、主演は阿部サダヲとかであって、自分は端っこの役をやる。というのに、近いような気がする。
つまり、変な言い方だけど、自分よりも、自分の表現したい世界の方が大事であって、そっちを優先するというか、そっちさえ実現できればいいというか、そういう感じなのです。別に、控えめな人たちである、とか言いたいわけではない。プロとして、人前に立ってなんかやってる時点で、控えめじゃないし。だから、「自分のことなんて伝わらなくていい」んじゃなくて、「そういうストイックなやりかたをした方が、結果的にはよく伝わる」ということが、わかっているんだと思う。
あと、「自分のためにやっていない」というのも、強いと思う。徹底的に、お客さんのためにやっている。だから、一瞬たりとも目が離せない、あんなに緻密なステージになるのだと思う。
わかりやすい例を出すと、普通のロック・バンドだったら、曲と曲の間で、ギターやベースがチューニングを直す時間がありますよね。あの時間、我々、ただぼーっと待ってるだけでしょ。そういう時間が、片時たりともない、ということです。シンプルに、「お客さん的には、そんな時間、いらないから」という理由だと思う。ささっと白衣のローディが出てきて、ささっと浮雲や亀田誠治のギター(ベース)を交換して、ささっと去っていく。で、その間も、映像とかの演出によって、ステージは進んでいる、という。
だから、東京事変のライヴって、曲数のわりに全体の尺が短い。この日も、アンコールまで合わせて25,6曲やったのに、約2時間で終わりました。濃密の極みでした、ほんとに。
そろそろこれ、本気で海外に輸出することを考えてもいいんじゃないか。と思ったが、アメリカ・ツアーとか無理そうだなあ。メンバー、スケジュール押さえるの大変そうだし。椎名林檎、身体、丈夫じゃないし。(兵庫慎司)