【コラム】孤独「だった」天才、米津玄師が真夏のステージに降り立った理由に迫る

【コラム】孤独「だった」天才、米津玄師が真夏のステージに降り立った理由に迫る

ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2015の2日目(8/2)、RIJF初出演にしてPARK STAGEのトリを飾った米津玄師のパフォーマンスは、夜に沈む木々の間をすり抜けてゆくような幻想的な音楽と、しかしヴィヴィッドなエネルギーや肉感のある言葉にも満ち満ちていて、実に素晴らしい時間であった。今後は、本日出演した「RISING SUN ROCK FESTIVAL 2015 in EZO」(8/14出演)に続き、「MONSTER baSH 2015」(8/22出演)、「SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER 2015 -20th ANNIVERSARY-」(8/28出演)といった各地フェスの舞台にも立つことになる。

「ニコニコ動画」にオリジナル楽曲動画を投稿していたハチこと米津玄師は、そのクオリティの高さで大きな支持層を築いたボーカロイドプロデューサーのひとりであった(現在、ニコ動に残されているハチ作品は、米津玄師名義作のMVを除けばボーカロイド作品のみ)。ハチ名義で2作の全国流通アルバムを発表し、そのうち『OFFICIAL ORANGE』収録の“遊園市街”は自身のヴォーカル曲となっている。2012年に米津玄師名義のアルバム『diorama』を発表し、翌2013年5月にはシングル『サンタマリア』でメジャーデビュー。この作品で初のバンドレコーディングに取り組んでいる。

米津玄師が初めて本格的にライヴを行うのは、2014年のアルバム『YANKEE』リリース後のことだ。シークレットでイベント出演を行った後、オリコンチャート2位を記録したアーティストとしてはとても需要に応えきれないキャパシティの会場で、一夜限りのワンマンを行った。現在へと続く4人のバンド編成でそのステージに臨んだ米津玄師は、もともと自分のために作っていた音楽が、今度はひとりきりでは作れなくなったことや、だからこそバンドを結成し、音楽を聴いてくれる人々と直に向き合おうとしたこと、自分の身の丈に合ったサイズの会場で初ワンマンを行ったことを告白していた。ライヴの回数を重ねるにつれ、“マトリョシカ”や“パンダヒーロー”といったボカロ人気曲も、米津の肉声でセルフカヴァーされるようになる。

インターネット回線を通じて人々に届けられていた米津玄師の音楽は、今や夏フェスでも触れることが出来るようになった。でもそれは、バンド演奏だからより優れているとか、生のステージだから良いという意味では決してない。動画サイトもCDもライヴも、音楽に触れるための一手段でしかないと僕は思う。ただ、米津玄師は、アーティストとして成長するために、バンドを、そしてオーディエンスを必要とした。あの巨大な才能が霞むほどの努力を払い、目まぐるしい勢いで表現力を向上させ、ライヴの規模を拡大してきた。

ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2015のステージで、最後に披露された新曲“アンビリーバーズ”(9月2日リリースのシングル表題曲)は、生ギター/生ベースを排したハーフエレクトロニックな先鋭的パフォーマンスで繰り広げられ、自由に伸び伸びと成長し続ける米津玄師を証明するかのようであった。2016年1月からは、地元・徳島含め全国12公演のツアーが開催される。そう、米津玄師は他でもなく、あなたと出会うために成長し、あなたと出会うことでまた成長してゆくのである。(小池宏和)
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