ケンドリック・ラマー、ドクター・ドレーやアイス・キューブらにN.W.Aについて訊く
2015.08.28 12:06
8月14日にアメリカで公開された伝記映画『Straight Outta Compton』が興行と評価の両面で好調で、その余波で関連作品が10枚もビルボードのアルバム・チャートにチャート・インしているN.W.Aだが、同じロサンゼルスのコンプトン出身のケンドリック・ラマーがN.W.Aの面々へのインタヴューを試みている。
ドクター・ドレーやアイス・キューブを擁し、90年代を席巻したギャングスタ・ラップだけでなく、ロサンゼルスを中心とするウェスト・コースト・ヒップホップ・シーンまで生み出したN.W.Aはケンドリックの大先輩格にもあたるわけだが、N.W.Aとギャングスタ・ラップは、80年代に入ってからアメリカのストリート犯罪が凶悪化し、大きな社会問題となっていたという背景を初めて音楽表現として捉え直したところが画期的だった。
コンプトンは特にそうした意味でロサンゼルスでも最も危険な犯罪多発地帯として知られてきたが、同地区を地元にするN.W.Aは、自分たちが見聞きしてきた犯罪の数々を戯画化しながらラップ・ストーリーとして打ち出していくことで物議を醸すと同時に爆発的な人気をも誇ることになった。それは同じような治安の凶悪化を経験していたさまざまな都市の若者の共感を呼んだというだけでなく、白人が多く住み安全な都市部郊外の若者たちに都市の現実を開示するものとして熱狂的に迎えられたからだ。
N.W.Aの登場から25年近く経ってリリースされたケンドリックの『グッド・キッド、マッド・シティー』もまた、そんなコンプトンで生きているとどれほど真面目に生きたいと思ってもどうしても犯罪に引きずり込まれてしまう現実と憂いを綴ったものになっていたが、こうした世界を初めて表現に乗せることでどう世界が変わったと思うかとケンドリックはN.W.Aの面々にビルボード誌のインタヴューで問いかけている。
アイス・キューブは「コンプトン出身でもなければ、こういう世界は普通じゃ見られないもんだからな。俺たちの音楽は安全な距離を保ったまんまコンプトンを訪ねてみることができるものだったんだよ」と答え、ドクター・ドレーは「俺たちは郊外のキッズにアップでなにが起きてるのかを見てみるチャンスを提供したんだよ」とニュース・ドキュメンタリー的な役割を担っていたことを説明している。
アイス・キューブ「みんなようやく気になってきたかっていう。俺たちの町でなにが起きてるのかを聴いて、やっと興味を持ったなっていう。コンプトンもやっとなんか意味のある地名になったかっていうさ。やっと注意を向け出したなっていう。おかげで俺たちは当時横行していたとんでもない不当な事態に光を当てることもできたんだよ。俺たちが経験していることを、ちゃんと消化して、理解して、共感できるように俺たちは世の中に提示してみせたんだよ」
ドクター・ドレー「あれよりももっとソフトにやってたら、誰も関心を持ってくれなかっただろうね。絶対にうまくいってなかったはずだよ」
その一方で、当時はいずれ成功すると確信していたのかというケンドリックの問いにMCレンは「はっきり言ってどうでもよかった」と答えていて、アイス・キューブは「LA、コンプトン、サウスセントラル、ロングビーチ、ワッツとかでのギャングの実態とか薬物の密売とか、そんなことに世の中の連中が興味を持つなんて到底思えなかったんだよね。当時のヒップホップの中心地は(ニューヨークの)ブロンクス、ブルックリン、ハーレムだったからな。俺たちのいるところなんて辺境もいいとこだし。でも、別にそれで構わなかったんだ」と振り返っている。
ドクター・ドレー「こう考えてみなよ、俺たちは『コンプトンの無法者たち』を6週間で仕上げたんだよ。しかも、その間の週末とかはしっかり休んでるんだぜ。それが25年経ったら、そんなふうにして作ったアルバムをタイトルにしているハリウッド映画が作られちゃうんだから。まったく信じられないよ」
なお、N.W.Aはコンプトンを根城にしていた元薬物の売人でその資金を元手にヒップホップ・レーベルのルースレス・レコードを設立したイージー・Eが招集したグループで、イージーはこうした元ストリート・ギャング出身のアーティストの草分けのひとりとしても知られている。ドレー、アイス・キューブ、DJイェラ、MCレンなどのほかのメンバーはもとからミュージシャン志望の人材で、全員イージー・Eが地元で活躍する逸材を引き込む形でグループに加わった顔触れだった。レコーディングなどの制作費などはすべてイージー・Eの負担で行われていたが、イージーの目論見通り、N.W.Aとロサンゼルス発のヒップホップは一大ブームとなり、イージーも一躍時の人となった。しかし、金銭面での意見の対立が絶えず、アイス・キューブ、ドレーらが次々と脱退し、1991年にN.W.Aは実質的に解散した。ドレーらとイージーはその後激しいディスり合いを繰り返したが、95年にイージーはエイズにかかっていることを発表し、N.W.Aの元メンバーらとも邂逅し、そのまま同年他界した。
イージーとの関係というものはどういうものだったのかというケンドリックの問いにレンは「イケてたね。イケてる兄貴みたいなもんだったよ」と語り、イェラは「時代を先取りしてたな」と振り返り、アイス・キューブも「正真正銘、先見の明があったよ」と説明し、ドレーは「自分がストリートで学んだことをこっちに持ってきたんだよね。超絶的に頭のいいやつだったよ」と回想している。
レン「初期のインタヴューじゃ、イージーはN.W.Aのことをオールスター・ユニットだと説明していて、まだ誰も俺たちのことなんか知らない頃なのに、きっと俺たちにもまだわかってなかったことがちゃんとわかってたんだろうね」
さらに当時のスタジオでの様子を教えてほしいという問いにドレーは次のように振り返っている。
「その場のエネルギーがもうクレイジーなくらいすごいことになってたから。自由だし。楽しいし。スタジオ代は全部イージー持ちだし、俺たちはもうただ好きに作ってりゃよかったんだから」
アイス・キューブ「それでもって地元のいろんなやつがみんな顔を出すんだよね。それが楽しかったなあ」
N.W.Aを今振り返ってどう思うかという問いにメンバーは次のように答えている。
アイス・キューブ「世界で最も危険なグループで、しかも、アーティストが自分自身について素で、正直に表現することを可能にしたグループなんだ。その遺産は、俺たちは確かに身を滅ぼすような地域に住んでいたかもしれないけど、なにか建設的なこともやれたということなんだ」
ドクター・ドレー「インスピレーションという遺産を残したよね。なぜって、俺たちはなんにもないところから登場したからだよ」