【連載】奇跡の再始動STORY 〜THE YELLOW MONKEY編〜

平成から令和へと元号が変わり、もうすぐ1ヶ月が経とうとしている今日この頃。この連載「奇跡の再始動STORY」では、平成という時代に解散や活動休止し、そして再び平成で復活を果たしたバンドやグループ――彼らの歩みが止まってしまったあの日から、一体どんな未来=「今」に繋がっていたのかを辿っていく。
その第二回目では、THE YELLOW MONKEYを特集する。


■メジャーの世界でも抱き続けた独創性と美学

元URGH POLICEの吉井和哉(LOVIN/Vo・G)、元MURBASの廣瀬洋一(HEESEY/B)、元KILLER MAYの菊地英昭(EMMA/G)&菊地英二(ANNIE/Dr)という80年代ジャパニーズメタルシーンを出自とする4人が結集したTHE YELLOW MONKEY(当初は吉井はベーシストだったが、廣瀬を誘って自身はギターに転向、さらにボーカル脱退により吉井がギターボーカルを担当)。やがて、デヴィッド・ボウイ/T.Rex/ルー・リード/ニューヨーク・ドールズなどの影響が渾然一体となったサウンド、ファッションやメイクなどビジュアルを前面に押し出したバンドイメージ――といった要素を織り重ねながら、ロックの熱量とアンダーグラウンド感が妖艶に渦巻く独創的なスタイルを編み出していく。そのディープな音楽性、そして吉井が描く退廃感を帯びた美学と世界観は、1992年にシングル『Romantist Taste』でメジャーデビューを果たした後もバンドの核として生き続けていくことになる。

■ライブの熱狂が生んだ躍進、そして“JAM”誕生

1stアルバム『THE NIGHT SNAILS AND PLASTIC BOOGIE(夜行性のかたつむり達とプラスチックのブギー)』(1992年6月)、2ndアルバム『EXPERIENCE MOVIE(未公開のエクスペリエンス・ムービー)』(1993年3月)……とセールス面でのブレイクのタイミングを掴めないまま、ライブにおいては熱狂的な支持を集め動員を拡大し続け、1993年4月には初ホール公演となる日本青年館ワンマンを成功させるなど如実に頭角を現しつつあったTHE YELLOW MONKEY。自らの音楽世界をグラマラスなロックナンバーへと昇華したヒットシングル『Love Communication』(1995年1月)をきっかけに、4thアルバム『smile』で初のチャートトップ10入り(同年2月)、初の日本武道館公演(同年4月)、5thアルバム『FOUR SEASONS』ではついにアルバムチャート制覇(同年11月)……と目覚ましい大躍進を遂げていく。
そんな彼らの存在感を日本中に焼き付けたのが“JAM”。スロウバラードという曲調、《外国で飛行機が墜ちました ニュースキャスターは嬉しそうに/「乗客に日本人はいませんでした」》、《僕は何を思えばいいんだろう 僕は何て言えばいいんだろう》というシビアな歌詞、といったヒット曲のセオリーの真逆を行く楽曲に、当時の所属レーベル=トライアドでもシングルリリースには反対が巻き起こったという“JAM”。しかし、それはバンドのアティテュードを象徴する名曲としてTHE YELLOW MONKEYの名前をロックシーン以外にも広く知らしめることとなった。


■ロックを背負うがゆえの重圧と葛藤

移籍第1弾アルバムとなる6作目『SICKS』をリリースした1997年、THE YELLOW MONKEYは日本の名実ともにロックシーンの旗手として「フジロックフェスティバル」の第1回、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンレッド・ホット・チリ・ペッパーズの間という最高のスロットに出演。だが、“TVのシンガー”などシリアスなナンバーを揃えたセットリストは、台風直撃による悪天候という環境も相俟ってバンド本来の訴求力を発揮するには至らなかった。後に吉井自身、自伝『失われた愛を求めて』の中で〈「過去の楽曲で一番ロック的なものを用意してあげなきゃ」って思って、裏目に出たんですね〉と述懐している。
さらに1998年、ストイックなロック感を前面に打ち出した7thアルバム『PUNCH DRUNKARD』で自身3作連続となるアルバムチャート1位を記録したTHE YELLOW MONKEYは、同年4月から翌年3月まで丸1年・計113本に及ぶ超ロングツアー「PUNCH DRUNKARD TOUR」を開催する。総勢55万人動員という華々しいスケール感とは裏腹に、度重なるアクシデントや疲労感によって吉井自身も追い詰められていく。ロックを背負う覚悟とその重圧、自らの理想像とファンの求めるバンド像の軋轢――シーンの先頭を疾駆するロックアイコンゆえの苦悩と葛藤に、THE YELLOW MONKEYもまた抗い難く苛まれた時期だった。

■突破口を求めた末の「ピリオドなき終幕」

新たな試みとして外部プロデューサー陣とのコラボレーションによるシングル群を制作するものの、「バンドを変えたい」吉井と「変えない方がいい」というプロデューサー陣の方向性はすれ違い、2000年7月には8thアルバム『8』をリリースするもののツアーは行われず、同年11月に伝えられたのは「2001年1月の『メカラ ウロコ・8』(大阪ドーム&東京ドーム)終了後にバンドは活動休止」というアナウンスだった。その際の東京ドーム公演が結果的に解散前最後のライブとなり、シングル『プライマル。』のリリースを経てメンバー4人はそれぞれソロ活動へ。そして2004年7月7日、バンドの解散が正式に発表され、同年開催された全国10都市のフィルムコンサート「Petticoat Lane PRESENTS THE EXHIBITION AND VIDEO FESTIVAL OF THE YELLOW MONKEY メカラ ウロコ・15」最終日=12月26日・東京ドームに集結したメンバー4人の“JAM”の演奏をもって、バンドの歴史に幕が下ろされた――。
ロックシーンの空気感自体が、インディーズパンクをはじめとする「非ロックスター性」へと向かっていった90年代にあって、「ロックスターであること」を真っ向から引き受けなければ鳴らし得ないダイナミズム、そして同時に旧来型スター像とは一線を画した「深遠かつリアルな音楽世界」を同時に追求し体現し続けた、どこまでもスリリングで魅力的な道程だった。

■時を経たから見えた「THE YELLOW MONKEYという奇跡」

バンド解散後もトリビュート盤(2009年)、ファン投票ベスト盤(2013年)などリリースが相次いでいた状況は何より、THE YELLOW MONKEYへの尽きることのないシーンの支持と愛情を明快に象徴するものでもあった。そんな中、2016年の年明けとともに「JR渋谷駅の巨大ポスター」、「バンド新公式サイト」などで立てまくっていた「その先」へのフラグを、THE YELLOW MONKEYは1月8日、メンバー再集結&全国ツアー開催の発表によってドラマチックに回収してみせたのだった。
〈シンプルにこの4人でもう1回音を出したらおもしろいんじゃないかと思っちゃったの〉、〈この4人でしか生まれないグルーヴがあったんじゃん!っていうのがあって、無性にやりたくなった〉(『ROCKIN’ON JAPAN』2016年7月号)……バンド復活へと至った想いをストレートな言葉で語っていた吉井の言葉からは、カオスな状況の中にいたがゆえに吉井自身その全体像を捕捉できなかった「THE YELLOW MONKEYという奇跡」を、改めて真正面から見つめていることが窺えた。
そして同年5月11日、THE YELLOW MONKEY自身約15年ぶりとなるライブの幕開けを飾ったのは、ライブ未演奏のままになっていた解散前のラストシングル曲“プライマル。”だった。「THE YELLOW MONKEY SUPER JAPAN TOUR 2016」のステージ上で、吉井は「THE YELLOW MONKEYはもう、一生解散しません!」と宣誓していたし、今年3月に武道館で行われた最新アルバム『9999』の世界最速「生演奏」試聴会でも「この生まれ変わったTHE YELLOW MONKEY、一生懸命頑張りますんで、どうぞみなさんよろしくお願いします」と新たな決意を告げていた。時代を大きく変革してきた、唯一無二の妖しさと眩しさを備えたロックンロールが、今なお現在進行形で僕らとともに生きている――その嬉しさを、『9999』を聴きながら改めて噛み締めている。(高橋智樹)