「女の子たちの人生のサントラになって欲しい」――椎名林檎は11月17日に放送された音楽バラエティ番組『関ジャム 完全燃SHOW』の中で、自身の作品についてそう話していた。まさに彼女はいつでも私たちが求めるものを熟知して、寄り添ってくれている。そして、サウンドトラック盤を聴くと劇中でその曲が流れたシーンを思い出すように、椎名林檎の曲と私たちの人生もまた結びつきが強い。番組内で弘中綾香アナウンサーが「椎名さんの音楽で私の人生がわかるみたいなところがある」と言っていたが、同じように感じている人も多いのではないだろうか。
女性アーティストの作品には、同じ女性からの「共感」がつきものだ。それは例えば片想いの切なさなどといった、決まったシチュエーションでの「あるある」や心の動きが、具体的に歌詞の中に落とし込まれることで生まれる。椎名林檎の場合は「女性が年齢を重ねていく上での変化」という部分での共感もある。少女の青春時代が切り取られた“正しい街”や“ここでキスして。”、女として成熟していく中で愛を求める激情が歌われた“本能”や“罪と罰”、守るべきものを手にした女の強さが滲む“茎”や“旬”、そして女と母性を繋ぐ“カーネーション”や“ありきたりな女”。これらは椎名林檎が20年という時間の中で、それぞれの時代を経てきたからこそ生まれた象徴的な作品だ。そして世の中の女性たちも、時に椎名林檎の曲と自分自身の変化を重ねて聴いてきたことだろう。
しかし「少女から大人の女になって結婚して母になる」という流れを一緒くたに「女の人生」と形式化する時代は、とっくに過ぎている。現代の女性はもっと自由に、いろんな道を選択できるわけで、そういった意味で椎名林檎が言う「女の子たちの人生」の真意は、前時代的な「女の人生」とはまた別のところにあると思うのだ。そう考えると、彼女が「女」や「女性」ではなく「女の子」という言葉を使った理由も見えてくる。椎名林檎のミューズである「女の子」は、その言葉通り10代の少女を指していると同時に、ひとつの概念のことを言うのかもしれない。つまり、年齢は関係なくその心を持って生まれてきた人なら誰しもに備わっている性質や運命、言い換えると「性(さが)」だ。それが理性などの後天的なものに邪魔をされていないままの状態を「女の子」という言葉で表しているのではないだろうか。
椎名林檎のアルバム作品に曲間がないのは特徴的だが、彼女は『関ジャム』の中でその理由を「リアリティーを持って描くため」と答えていた。「心無い殿方の一言や失言」で気分が左右されてしまったり、生理などの内なる勝手なバイオリズムがあったり、移り変わりが激しい「女の子」の日々に寄り添うことを意識しているという。音楽的な理由だけだと思っていたから、まさかそんな考えもあったとは驚きだった。きっと曲間の他にも、私たちにはわからないところまで緻密なこだわりが施されていて、だからこそ椎名林檎の曲は「女の子」の複雑な心の機微にもスッと入り込んでくる。彼女の言葉を借りるなら「子宮で曲を書く」ということで、共感どころかもっと感覚的に深いところで私たちが持つ「女の子」の部分と「合致」させる。ここに、椎名林檎の本当の凄さと誰にも真似できない職人技を感じるのだ。
何も人生の重要な局面に華を添える主題歌というわけではなく、もっと日常的なふとした瞬間に自然に流れ出す挿入歌として、椎名林檎は「女の子たちの人生のサントラになって欲しい」と言っているのだと思う。そして実際に椎名林檎の曲は、不思議と私たちを主人公として引き立てる力がある。仕事終わりの帰宅途中、どんなにくたくたでもイヤホンから“人生は夢だらけ”が流れ始めた瞬間、急に背筋が伸びて足取りが軽やかになるように、私たちを何かから解き放ってくれることはあっても、決して惨めな気持ちにはさせない。「女の子」に肯定的な目線でしっかり内面から理解し、それに寄り添った作品を組み立てていく椎名林檎は、もはや私たちの人生の演出家であるとも言えよう。(渡邉満理奈)
『関ジャム』で明かされた椎名林檎の歌が「女の子たちの人生のサントラ」として輝き続ける理由
2019.12.11 17:00