米津玄師『diorama』『YANKEE』『Bremen』について

米津玄師『diorama』『YANKEE』『Bremen』について
米津玄師『diorama』『YANKEE』『Bremen』について
米津玄師『diorama』『YANKEE』『Bremen』について
約3年半の間にリリースされた米津玄師の3枚のアルバムを改めて通して聴いて思うのは、この短期間の間にここまで飛躍的な変化をしたアーティストはまずいないだろうということ。

2012年5月に『diorama』がリリースされるときに、僕はこのブログで米津玄師の音楽について以下のように書いていた。

「僕たちの心の何割かを確実に占めている『生きている実感のない部分』がこの音楽の中では自由に活き活きと動くことができる。現実の世界から音楽という箱庭を眺めているのか、音楽の世界から現実という箱庭を眺めているのかわからなくなるくらい、執念深く精巧に作られたこの1枚のアルバムの誕生は、明らかに大きな時代の変わり目の到来を告げている」

『diorama』というアルバムに受けた衝撃は今、聴き直してもまったく薄れていないし、実際に「大きな時代の変わり目の到来を告げた」アルバムであったと改めて思う。
しかし『YANKEE』『Bremen』のような形で、この『diorama』というアルバムを作った米津玄師というアーティストが変化していくというイメージは、まったく無かった。
しかし彼が、根本的に表現の形を変えてしまったわけでもない。
「僕たちの心の何割かを確実に占めている『生きている実感のない部分』がこの音楽の中では自由に活き活きと動くことができる」という本質的な部分は、何も変わっていないと言っていいだろう。
少年の表現から、青年の表現へ、そして成人の表現へと成長していっただけと言ってもいいぐらい、そのテーマはブレていない。
では、それぐらい大きな環境の変化が彼の身の回りにあったということか?
バンドと共にライブをするようになったこと、メジャー・デビューをしたこと、いくつかの楽曲では蔦谷好位置と共同アレンジするようになったことなども、それまでたったひとりで音楽を作っていた彼にとって、とてつもなく大きな変化だとは思うが、やはり大きな方向性においても、細部のディテールにおいても、米津の音楽作りは彼の個人のコントロールによって行われていることはその音楽を聴けば明らかであり、その環境の変化が本質的な理由ではないと僕は思う。

では、米津玄師の音楽に何が起きたのか?
シンプルに言ってしまうと「愛」と出会ったということだ。
『Bremen』を聴いた人はわかると思うが、まだ聴いていない人に誤解しないでほしいのは、「愛」と出会ったことによって米津玄師の音楽が満たされたものになったわけではない。

《ハッピーなエンドがいいんだよ 誰だって喜べるみたいなさ/そんなことを思いながら僕はずっと生きていくのか/いつかもし僕の心が 完全に満たされたとしたなら/その瞬間に僕は引き金をひきたい》(“Undercover”)

「愛」に触れ、「愛」にまみれ、傷ついたり失ったりもしながら、「生きている」実感のない場所から、「生きていく」自分を許せるようになり、みんなが「生きていく」ための歌さえも歌えるようになったということだ。
たぶん、その魂は「幽霊船」に乗ったまま。

今週、CUTとしては初めて米津玄師にインタビューする予定。
3枚のアルバムの変化について、深い話ができたらと思っている。(古河)
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