2010年下半期私的ベストAL 第1位
2010.12.28 06:00
Kanye Westの『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』を選出。
制作途中のKanye Westは、このアルバムをThom YorkeやNine Inch Nailsを聴きながら作っていると語っていた。実際、そうだった。ここで聴ける音の硬度は、音そのものに宿る肉体性と思想性を(時代の要請として)極限まで突き詰めてきた両者のそれと同様に、凄まじい。ヒップホップの文脈をまるで無視するかのような乱暴さでKanyeはその領域に踏み込み、そして、Kanyeにしか為しえなかったサウンドとしてリデザインし、そしてそれらを強引な手さばきでまた、ヒップホップの音へと強引に帰結させた。ほとんど、そのことだけでこのアルバムは他を圧する作品として屹立してしまっている。昨今、これほど高揚する音はなかったと言っていい。
しかし、このアルバムが真に時代的であるのは、それだけに留まらない。この音の硬度がいかなる「時代の無意識」を反映したものなのか。それがとりわけ重要なのである。
語りで始まるイントロから、まばらな拍手で終わるラストまで、このアルバムには一貫して痺れたようなエモーションが貫かれている。持続した緊張感とでも、終わりのない苛立ちとでも呼べるそのエモーションは、だから、喜びを連れてくることもなければ、哀しみで包むことすらもない。高鳴りや静けさはあるものの、それらはみな同じような顔つきで鳴っている。ただただひたすらに、何かに「耐えている」かのようなエモーションがこのアルバムを張り詰めたものにしている。
そう、「耐えている」というのが、現在の「時代の無意識」である。われわれはじりじりと耐えている。しかし、それは何にだろう?
凄まじい旅を経巡ってきたアルバムも最終盤に至って、「Blame Game」というナンバーへ行き着く。「アイ・ラブ・ユー」と「アイ・ヘイト・ユー」が代わる代わるに歌われるこのトラックは、多くの音楽が扱ってきた「エモーション」の、その両方を手にとってみている。ほとんどの音楽は、言うまでもなく、どちらか、である。愛していると喜びに打ち震えるか、オマエなんか嫌いだと憎しみに身体を震わせるか泣き崩れるかの、どちらかを歌ってきた。この曲は、その両方を行きかう。しかし、だからといって「両方なんだ、この世界は」と言いたいのではない。
そのナンバーにおいて、Kanyeがおそらくこのアルバムの中でもっとも繰り返す言葉がある。それは「もう愛せない」という言葉だ。
愛せないから憎いのかというとそうではない。じゃあ愛しているのかというともはやそうはなれない――。どっちかではなく、どちらもでもなく、ただ「愛せない」というエモーション。これがどんなに辛いことか、わかるだろう。そこから立ち去ることもできなければ、抱きしめることもできない、そのようなエモーション。「耐えている」のは、それである。
ここ数年、Kanyeを襲った(あるいは自ら招いた)状況は、まさに世界を「愛せなくなる」ものだった。いくらビッグ・セールスをあげ、素晴らしいと誉めそやされる作品を作っても、結局はトロフィーは誰かの手に渡っていった。じゃあ、自分以外の誰かに輝かしい賞を!と願っても、思い通りには行くはずもなく、万人の目の前で醜態をさらす破目になった。自分を愛してくれた肉親はこの世を去った。洪水の襲った街では、自分と同じ肌の色をした人たちは、助けてもらえなかった。もっとたくさんあるだろう。おそらく、Kanyeはこの世界でナンバーワンになると誓って世に出てきたラッパーである(それはすべてのラッパーがそうなように)。ということは、この世界をある意味愛していたわけである。とりわけKanyeの場合、それは可哀想になるくらい無邪気なものだったに違いない。幼い子供を想像してみればいい。見るものすべてが輝いて、美しく、まっすぐな世界。そこでどこまでも自身の可能性を信じ、生の躍動を最大限に放射しようと小さな胸を期待に膨らませていた子供は、やがて思い知る。しかし、世界はそうじゃなかったと。世界は冷たく裏切っていく。オマエが思っているようなところじゃないよと、いつだって答え続ける――。世界はKanyeの思いを蔑ろにするか、容赦なく奪っていくかのどちらかだった。Kanyeにとって世界は、愛するものではなくなった。Kanyeは世界を愛せなくなった――。
そんな慟哭が、このアルバムを痺れさせていると思うのである。泣き喚くのではない。怒りにまかせて破壊するのではない。「愛せなくなった」という冷厳なる事実を前に、ただ震えながら耐えること。それがこの「僕の、美しくも暗く、ひねくれたファンタジー」である。そしてそれは、とりもなおさず、崩壊してしまった現在の世界を覆う「時代の無意識」であり、われわれのファンタジーでもある。
そこまで来て、KanyeはBon Iverの「Woods」を引用しながら、「森」の中へと分け入る。そこは、自ら進んで来た場所でもあるし、逃げ込んで来た(「Runaway」)場所でもあるし、力を持て余しながら迷い込んだ場所(「Power」から「21st Century Schizoid Man」へ)でもある。そこで、光を見る。そのときに鳴る(鳴らす)のが、アフリカン・リズムである。なんということだろう。そこまでKanyeは帰っていくのである(帰らされるのである)。
どうやって生き抜くんだ? 誰がいったい生きていけると言うんだ? そんな問いでアルバムは終わる。その叫びに対し、観客は退屈げな、まばらな拍手を送る。それは、百万のフラッシュを浴びるセレブリティのパブリック・イメージを剥ぎ取った、Kanye Westという一個人の「現在」をあまりにも激烈に表現し尽くしている。このアルバムは、「愛せない」世界を前に、ひとりぼっちになっているということだけを告げるアルバムである。どうすることもできない現実を前に、それでもどうにかして耐えていかなければならないと告げるアルバムである。そこではもう、愛してみることも、憎んでみることもできないのだけど、それでも、というアルバムである。『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』は、そんなふうに、放り出してしまうアルバムである。無論、そんな厳然とした場所にKanyeと同じように立っているのは、われわれである。