団地の話(音楽とはぜんぜん関係ない話です)

団地の話(音楽とはぜんぜん関係ない話です)

団地が好きだ。団地に出くわすとテンションが上ってしまう。JAPANで撮影場所をどこにしようかという打ち合わせをしていて、これといったアイデアが出ない時はつい「じゃあ団地にしよ」と言ってしまう。エレカシ、くるり、チャットモンチー、阿部真央などなど、これまでJAPANで何度も団地でフォトセッションした。いつかロッキング・オンでも洋楽アーティストを団地で撮ってみたい。
いい団地と良くない団地を見分けるのも得意だ。でも、団地はだいたい、いい。取り壊される寸前の古い団地も、何十棟もある巨大で虚無的な団地も、若い夫婦と小さな子供が多い建設されたばかりの真新しい団地も、それぞれにいい。一つ一つの世帯が集まった一つの建物があり、その建物が集まって一つの団地を形成しているから、全体が大きな「気」のようなものに包まれている。コンクリートの建物に挟まれて声にエコーがかかる感じも、直線の影が地面をくっきりと切る感じも、ビルとは違う横長の安定感も、住んでる人たちの地位や収入に大差ない感じも、いい。
僕も小さい頃に団地に住んでいたことがある。その頃は、収入が少ないうちは団地に応募して当たったらそこに住んで、収入が増えたらいつかマンションを買ったり家を買ったりしようと考えている若い夫婦と子供の一家が多かったように思う。最近はどうなんだろう。今思い出したけど、その頃僕の親も含めて団地に住んでいる人のお決まりのセリフは「こんなウサギ小屋から早く出たい」だった。何十世帯も同じ建物に押し込められているのが嫌だったのだろう。
僕は住んでいた頃から団地が好きだった。同じ幼稚園の友達の何人かは同じ建物に住んでいたからすぐに遊びに行けたし、4階だったから眺めは良かったし、建物から出たらすぐ目の前に砂場もブランコもあったし、こんな便利な家、最高じゃないかと思っていた。一軒家なんか何がいいんだと思っていた。そもそも、男子幼稚園児のセンスにおいては一軒家よりも団地のほうが建築フォルム的にかっこよかった。門を開けて木の玄関ドアを開けるより、コンクリートの階段を駆け上がって鉄のドアを開けるほうがクールだった。
僕の親は僕が小学校に入る頃に一軒家を建てた。とても幸福そうだったが、なにか変わってしまった気がした。団地にいた頃は、僕が休日に家で遊んでいると「狭くて邪魔だからどっか外でも行って遊んでこい」という父親の無言メッセージを感じて、友達の家に行っていた。でも、一軒家を建ててからは、僕が部屋で遊んでいても平気で、むしろ満足そうだった。団地にいた頃はお互いがお互いをちょっと邪魔に感じていたのに、一軒家になったらなんだかアットホームな生暖かい雰囲気になった。それが嘘くさく感じてどうしても嫌だった。入れ物が変わったぐらいで気分や態度が変わるのが理解できなかった。家族なんて多少は邪魔に感じるほうが当たり前だし。だいいち、団地の方がいいし(笑)。
土地が狭く、治安の良い日本に住む人間にとって、団地はいろんな意味でちょうどよく作られた素晴らしいレジデンシャル・スペースだと思う。ちょうどいい経済性、ちょうどいい利便性、ちょうどいい共有性、ちょうどいいプライバシー。なくては困るけど行き過ぎると逆にマイナスになってしまうそれらの要素をいい落とし所に着地させて、その有り様にふさわしいベーシック・デザインがされた素晴らしいコミューン空間だと思う。たかが3人とか4人の集団(家族)が住むために個別に大層な一軒家を建てて競い合ったりローンに人生を食われるよりもよほど健全な気がする。その分、他のことに金や労力や情熱を使うほうが健全だと思う。
いけない、団地愛のあまり、罪のない一軒家をディスってしまった。でも、最近は老朽化した団地が取り壊されてその空地にマンションや建売住宅が建てられている光景をよく目にして、寂しい。上の写真は、新しく団地が建設されているところ。嬉しくて思わず撮ってしまい、その勢いでこんなくどくどした文章まで書いてしまった。
音楽と関係なくてすみません。
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